第七十一章 声にすること
朝。
アポロンは新しい上着を着た。
昨日より暖かい。
鏡を見る。
紺色の上着は、思っていたより似合っているように見えた。
「どう?」
美咲が聞いた。
「問題ない」
「それ、似合ってるって意味?」
「……たぶん」
美咲が笑った。
「じゃあ、似合ってる」
「そういうことにしておく」
二人で玄関を出る。
駅へ向かう途中、美咲が突然立ち止まった。
「ねえ」
「何?」
「今日、仕事終わったら連絡して」
「分かった」
「一緒に帰ろう」
「分かった」
駅で別れる。
アポロンは仕事へ向かった。
昼過ぎ。
店が少し忙しくなった。
注文が続く。
料理を運ぶ。
皿を下げる。
水を出す。
いつもの仕事だった。
その途中。
一人の客が帰り際に言った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
アポロンも頭を下げる。
客が店を出ていく。
それだけのことだった。
けれど、少ししてから。
別の客が言った。
「今日も美味しかったです」
健一が笑う。
「ありがとうございます。またどうぞ」
アポロンもその客を見る。
「また来る」
そう言われると。
なぜか少し嬉しい。
仕事が終わる。
アポロンはスマートフォンを取り出した。
美咲からメッセージが来ている。
『終わったよ』
アポロンはすぐに返信した。
『今から行く』
駅へ向かう。
改札の前に、美咲が立っていた。
「お疲れさま」
「お疲れさま」
二人で歩き出す。
「今日、何かあった?」
「特にない」
「本当に?」
「客に美味しかったと言われた」
「それ、嬉しかった?」
アポロンは少し考えた。
「うん」
「じゃあ、特にない日じゃないじゃん」
「そうなのか?」
「そうだよ」
アポロンは黙って歩いた。
神だった頃。
人間から感謝されることは珍しくなかった。
祈り。
供物。
願い。
感謝。
すべてが自分のところへ届いていた。
けれど。
「美味しかった」
その一言を、目の前の人間から直接受け取ることはなかった。
今は違う。
自分の働いた時間。
自分が運んだ料理。
自分が立っていた場所。
それらを通して、一つの言葉が返ってきた。
「また来る」
アポロンは小さく笑った。
「どうしたの?」
「いや」
「また一人で考えてる?」
「少し」
「何を?」
アポロンは歩きながら答えた。
「言葉は、声にして初めて届くこともあるんだなと思った」
美咲は少し考えてから言った。
「うん。言わないと伝わらないことって、結構あるよ」
「知っている」
「知ってるのに、たまに言わないよね」
アポロンは美咲を見る。
「そうか?」
「そうだよ」
「例えば?」
「……ありがとう、とか」
アポロンは黙った。
「言ってると思う」
「言ってるけど、思ってるより少ない」
「そうなのか」
「うん」
アポロンは少し考えた。
そして、歩きながら言った。
「ありがとう」
美咲が振り向く。
「何が?」
「分からない」
「何それ」
美咲が笑った。
アポロンも笑った。
「でも、言っておこうと思った」
「じゃあ、受け取っておく」
二人はそのまま歩いた。
家に帰る。
夕食を作る。
食事をする。
特別なことは何もない。
けれど。
食事の途中で、美咲が言った。
「今日も一日終わったね」
アポロンは頷いた。
「うん」
神だった頃。
一日は、ただ流れていた。
朝も夜も。
昨日も今日も明日も。
すべて知っていたから、終わることに意味を感じなかった。
今は違う。
今日という日は、もう戻ってこない。
だからこそ。
「お疲れさま」
美咲が言った。
「お疲れさま」
アポロンも返した。
その短い言葉だけで。
今日という一日が、静かに終わった。




