第七十章 選ばなかったもの
休日の朝。
アポロンは、冷蔵庫の前に立っていた。
昨日買ったパンがある。
卵もある。
牛乳もある。
「朝ご飯、どうする?」
美咲が聞いた。
「パン」
「卵は?」
「食べる」
「じゃあ、焼こうか」
「お願いする」
美咲が卵を取り出した。
アポロンはパンを皿に置く。
しばらくして、二人で朝食を食べた。
食べ終わる頃、美咲が言った。
「今日、買い物行かない?」
「何を買う?」
「冬の服を見たい」
「昨日、手袋を買った」
「手袋だけじゃ足りないよ」
アポロンは自分の薄い上着を見た。
「そうか」
「そうだよ」
二人で駅前の店へ向かった。
服屋には、厚い上着が並んでいた。
アポロンは一着ずつ見ていく。
黒。
紺。
灰色。
茶色。
どれも似ているように見えた。
「どれがいい?」
美咲が聞く。
「分からない」
「じゃあ、着てみたら?」
アポロンは何着か試着した。
鏡を見る。
黒い上着。
少し長い灰色の上着。
紺色の上着。
どれも問題ない。
「どれでもいい」
「それが一番困るんだよ」
美咲が笑った。
「じゃあ、私が選ぼうか?」
アポロンは少し考えた。
「いや」
「自分で選ぶ?」
「そうしたい」
アポロンは三着を見比べた。
どれが正しいのか。
そんなものはない。
暖かさ。
値段。
重さ。
見た目。
いくつかの違いがあるだけだ。
神だった頃なら。
すべての条件を比較して、最適な一着を知ることができた。
けれど。
今は、それをしなかった。
紺色の上着を手に取った。
「これにする」
「どうして?」
「分からない」
「それでいいの?」
「うん」
美咲は笑った。
「じゃあ、それにしよう」
会計を済ませる。
店を出る。
アポロンは新しい上着を着ていた。
「どう?」
美咲が聞く。
「暖かい」
「見た目は?」
アポロンは少し考えた。
「まだ分からない」
「鏡で見てみる?」
店の前のガラスに、自分の姿が映っていた。
紺色の上着。
黒い手袋。
少し短くなった髪。
そこにいるのは、以前の神ではなかった。
ただの一人の男だった。
「……変わったな」
「何が?」
「自分が」
美咲はガラスに映った二人を見た。
「そう?」
「うん」
「最初に会った時より?」
「ずっと」
美咲は少し笑った。
「私もそう思う」
二人はそのまま歩いた。
途中で小さな公園に寄った。
ベンチに座る。
風が冷たい。
けれど、新しい上着は暖かかった。
「買ってよかった?」
美咲が聞いた。
アポロンは少し考えた。
「うん」
「じゃあ、よかった」
しばらく二人とも話さなかった。
公園では、子どもたちが走っている。
一人が転んだ。
すぐに立ち上がった。
別の子が何か言う。
二人とも笑って走っていった。
アポロンはそれを見ていた。
「どうしたの?」
「いや」
少しだけ笑った。
「何でもない」
夕方。
家に帰る。
新しい上着を脱いで、玄関に掛ける。
明日から、それを着て仕事へ行く。
その予定だけが決まった。
それ以外のことは、まだ分からない。
アポロンは上着を一度見た。
たくさんある選択肢の中から、自分で一つを選んだ。
選ばなかったものが、間違いだったわけではない。
ただ、自分はこれを選んだ。
それだけだった。
アポロンは明日のために、上着を玄関に置いた。
そして、部屋へ戻った。




