第六十九章 寒さを知る
朝。
アポロンは、玄関を出たところで立ち止まった。
「寒い」
思わず口から出た。
美咲が振り返る。
「今日、寒いよね」
「昨日よりかなり違う」
「もう秋も終わりだからね」
アポロンは空を見上げた。
雲は少ない。
雨も降っていない。
それでも、空気は冷たかった。
「昨日まで、こんなに寒くなかった」
「一日で変わることもあるよ」
美咲はそう言って、マフラーを巻いた。
アポロンは自分の服を見る。
薄い上着しか着ていない。
「寒いなら、もう少し厚い服を着た方がいいよ」
「そうする」
駅まで歩く。
冷たい風が顔に当たる。
アポロンはポケットに手を入れた。
神だった頃。
寒さは知っていた。
気温も、風速も、湿度も。
人間の身体がどの程度の寒さを感じるかも知っていた。
けれど。
知っていることと、寒いことは違った。
それを、今になって改めて思った。
駅に着く頃には、指先が冷たくなっていた。
電車に乗る。
暖房の風が当たる。
「……暖かい」
小さく呟く。
向かいに座っていた男性が、少しだけ笑った。
アポロンも笑った。
昼休み。
健一が厨房から出てきた。
「今日、寒いな」
「寒い」
「珍しく意見が一致したな」
「いつも一致していると思う」
「そうか?」
健一は笑った。
「じゃあ、今日は帰りに温かいものでも食べるか」
「何を?」
「ラーメンとか」
アポロンは少し考えた。
「味噌ラーメン」
「即答だな」
「寒いから」
「なるほど」
仕事が終わった。
外に出る。
朝よりさらに冷えていた。
アポロンは両手を擦った。
「寒い」
「だから言っただろ」
健一が笑う。
二人で駅へ向かった。
途中の店で、アポロンは手袋を見つけた。
黒い手袋だった。
「買うのか?」
健一が聞く。
「買う」
「今まで持ってなかったのか?」
「必要だと思っていなかった」
「今日、必要になったんだな」
「そういうことだ」
手袋を買う。
店を出て、すぐに着けてみる。
指先が暖かくなった。
アポロンは自分の手を見た。
ほんの少し前まで、寒さを感じていた。
今は感じない。
「便利だな」
「手袋だからな」
「人間は、こういうものを作るのか」
「寒いから作ったんだろ」
アポロンは手袋を見た。
それは特別なものではなかった。
高価でもない。
誰でも買える。
けれど。
寒いという小さな不便に対して、人間が考えて作ったものだった。
「寒さを消すんじゃなくて、寒さに合わせるんだな」
健一は少し考えた。
「まあ、そういうことになるな」
「面白い」
「また難しいこと考えてる?」
「いや」
アポロンは手を握った。
「暖かいと思っただけだ」
その夜。
帰宅すると、美咲がテーブルに座っていた。
「手袋買ったんだ」
「うん」
「似合ってる」
「そう?」
「うん」
美咲は手を伸ばした。
「ちょっと貸して」
アポロンは手袋を外して渡した。
美咲が自分の手にはめる。
「大きい」
「君には少し大きいな」
「でも暖かい」
「そうだな」
美咲は手袋を返した。
「明日から忘れないでね」
「分かった」
夕食を食べる。
今日は味噌汁があった。
湯気が上がっている。
アポロンは椀を両手で持った。
温かい。
寒い日だから、いつもより温かく感じる。
「明日も寒いかな」
美咲が聞いた。
アポロンは答えなかった。
神だった頃なら、すぐに分かった。
明日の気温。
風。
雲。
雨。
すべて。
けれど今は。
窓の外を見ても、明日の寒さまでは決められない。
「分からない」
そう答えた。
美咲は笑った。
「じゃあ、寒かったら手袋使おう」
「そうする」
アポロンも笑った。
その夜。
ベッドの横に手袋を置いた。
明日の朝、寒いかもしれない。
寒くないかもしれない。
どちらでもいい。
必要になったら使えばいい。
アポロンは、そんな簡単なことを考えながら目を閉じた。




