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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第六十八章 笑う理由

朝。


アポロンは、冷蔵庫を開けた。


牛乳がない。


卵もない。


昨日、美咲に頼まれたことを思い出した。


「スーパーに寄る」


忘れてはいなかった。


ただ、朝の時点で買い物をする必要はないと思った。


仕事の帰りに買えばいい。


そう考えて、冷蔵庫を閉めた。


「おはよう」


後ろから美咲の声がした。


「おはよう」


「牛乳、もうないね」


「今日、買う」


「覚えてたんだ」


「約束したから」


美咲は少し笑った。


「じゃあ、お願い」


「任せて」


その言葉を聞いて、アポロンも少し笑った。


理由は分からなかった。


ただ、口元が自然に動いた。


駅へ向かう。


電車の中で、向かい側に座っていた子どもが母親に何かを話していた。


「昨日ね、学校で――」


途中で言葉を間違えた。


母親が笑った。


子どもも笑った。


アポロンは二人を見ていた。


何が面白いのか。


最初は分からなかった。


昼休み。


健一に聞いてみた。


「人間は、なぜ笑う?」


「急だな」


「朝、子どもが言葉を間違えて、母親が笑っていた」


「ああ」


健一は少し考えた。


「面白かったんじゃないか?」


「何が面白いのか分からなかった」


「そういうこともあるよ」


「笑うことに、理由は必要なのか?」


健一は笑った。


「また難しいこと言ってるな」


「質問している」


「そうだな……」


健一は皿を拭きながら言った。


「理由がある時もあるし、ない時もあるんじゃないか」


「ない?」


「嬉しい時とか、安心した時とか。誰かが笑ってるからつられて笑うこともあるし」


「それだけ?」


「それだけ」


アポロンは少し考えた。


神だった頃。


笑いというものは理解していた。


人間が何を面白いと感じるかも知っていた。


けれど。


自分が理由もなく笑ったことはなかった。


午後。


店が少し忙しくなった。


佐藤が皿を運んでいる。


一枚だけ、妙に大きな皿を持っていた。


「それ、重くない?」


アポロンが聞く。


「大丈夫です」


佐藤が答える。


その直後。


皿が少し傾いた。


「危ない」


アポロンが手を伸ばす。


佐藤も慌てて持ち直した。


「……危なかった」


「だから言っただろ」


「すみません」


「いや」


アポロンは皿を見た。


佐藤が苦笑する。


「アポロンさん、最近ちょっと人間っぽくなりましたよね」


「どういう意味だ?」


「前だったら、もっと変なこと言ってたじゃないですか」


「今も言っていると思う」


「それはそうですけど」


佐藤が笑った。


アポロンも笑った。


今度は、自分でも分かった。


少し面白かった。


仕事が終わる。


スーパーに寄る。


牛乳。


卵。


それから、少し考えてパンを一つ買った。


帰宅すると、美咲がいた。


「おかえり」


「ただいま」


「買ってきてくれた?」


「牛乳と卵」


「ありがとう」


美咲が袋を覗く。


「パンも買ったんだ」


「食べたかった」


「じゃあ、明日の朝に食べよう」


「うん」


夕食を食べる。


テレビでお笑い番組が始まった。


美咲が突然笑った。


アポロンも画面を見る。


男が何かを言った。


観客が笑う。


アポロンは少し遅れて笑った。


美咲が気づく。


「今、笑った?」


「笑った」


「分かったの?」


「少し」


「何が面白かった?」


アポロンは考えた。


「……分からない」


美咲は声を出して笑った。


「それじゃ分かってないじゃん」


「でも、今は少し面白い」


「何が?」


「君が笑っていること」


美咲は一瞬黙った。


そして、また笑った。


「それ、ずるいよ」


「何が?」


「分からないなら、もういい」


アポロンは首を傾げた。


けれど。


なぜか自分も笑っていた。


その夜。


布団に入る前に、買ってきたパンを冷蔵庫の上に置いた。


明日の朝に食べる。


それだけの予定だった。


アポロンはパンを見た。


そして、少し笑った。


理由は、もう考えなかった。

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