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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第六十七章 名前を呼ばれる

朝。


アポロンは、玄関を出るところで足を止めた。


「今日は何する?」


美咲が靴を履きながら聞く。


「仕事だ」


「そっか」


「君は?」


「今日は休み」


「そうか」


「帰ってきたら、また何か食べようよ」


「分かった」


それだけ話して、二人は家を出た。


駅へ向かう途中。


近所の道で、何人かの人が集まっていた。


道路の端に落ち葉が溜まっている。


どうやら、町内の掃除らしい。


アポロンは少しだけ足を止めた。


一人の年配の男性が、こちらに気づいた。


「おはようございます」


「おはようございます」


アポロンも頭を下げる。


「今日は仕事?」


「はい」


「気をつけてね」


「ありがとうございます」


それだけで、アポロンは歩き出した。


駅に着く。


電車に乗る。


仕事をする。


昼になる。


いつもの店だった。


健一が料理を運びながら言う。


「朝、町内会の掃除やってたな」


「はい」


「うちの近所でも、たまにやってるよ」


「健一も参加するのか?」


「時間が合えばな」


「何のために?」


健一は少し考えた。


「道がきれいになるから?」


「それだけ?」


「それだけでもいいだろ」


健一は笑った。


「一人で掃除してもいいけど、みんなでやった方が早いしな」


「なるほど」


アポロンはその言葉を覚えておいた。


仕事が終わる。


外へ出る。


駅へ向かって歩いていると、朝の男性がいた。


今度は一人だった。


「お疲れさん」


「お疲れさまです」


「アポロン君だったよね?」


アポロンは少し驚いた。


「はい」


「覚えてたよ」


「ありがとうございます」


男性は笑った。


「じゃあ、また」


「はい。また」


男性は先に歩いていった。


アポロンは、その場に少し立っていた。


名前を呼ばれた。


ただ、それだけだった。


けれど。


神だった頃。


人間から名前を呼ばれることは、ほとんどなかった。


「神様」


「主よ」


「あなた様」


そんな呼び方ばかりだった。


名前で呼ばれることはなかった。


アポロンという名前は、人間になってから自分で名乗ったものだ。


それが今。


誰かの記憶の中に残っていた。


「……アポロン」


自分で小さく名前を呼んでみる。


少し変な感じがした。


家に帰る。


美咲はソファに座っていた。


「おかえり」


「ただいま」


「今日どうだった?」


「名前を覚えてもらった」


「名前?」


「近所の人に、アポロン君と呼ばれた」


「よかったじゃん」


「そうなのか?」


「うん」


美咲は笑った。


「名前って、覚えてもらえるとちょっと嬉しいよ」


アポロンは考えた。


「そういうものか」


「そういうもの」


夕食の準備をする。


今日は簡単な炒め物だった。


美咲が野菜を切る。


アポロンが鍋を温める。


「そういえば」


美咲が言った。


「私、最初に会った時からアポロンって呼んでたよね」


「そうだった」


「名前、変えたくなったことない?」


アポロンは少し考えた。


「ない」


「どうして?」


「君が最初に呼んだから」


美咲は手を止めた。


「……それだけ?」


「それだけで十分だと思う」


美咲は少し照れたように笑った。


「変なの」


「よく言われる」


二人で食事をする。


テレビから、今日のニュースが流れている。


アポロンは画面を見ながら食事を続けた。


世界には、まだ知らない人間がたくさんいる。


その人たちの名前も。


生活も。


願いも。


すべてを知る必要はない。


今日、自分の名前を呼んだ人。


一緒に食事をしている人。


仕事で話した人。


それだけで、今は十分だった。


食事のあと。


美咲が皿を洗っている。


アポロンは布巾で水を拭く。


「アポロン」


「何?」


「明日、仕事の帰りにスーパー寄れる?」


「何か買うのか?」


「牛乳と卵」


「分かった」


「忘れないでね」


「覚えている」


「本当に?」


「うん」


美咲は笑った。


「じゃあ、お願い」


アポロンは頷いた。


また、小さな約束が一つできた。


それだけだった。


けれど。


夜、ベッドに入った時。


アポロンは昼間のことを思い出していた。


名前を呼ばれた。


名前を覚えてもらった。


それだけの出来事だった。


神だった頃には、一度も必要だと思わなかったこと。


けれど今は。


誰かに自分の名前を覚えてもらうことが、少し嬉しかった。


アポロンは目を閉じた。


明日は、牛乳と卵を買う。


それを覚えている。


それだけの明日を、静かに待った。

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