第六十六章 名前のない休日
朝。
アポロンは目を覚ました。
時計を見る。
午前七時。
今日は仕事がない。
それだけは、昨日のうちに分かっていた。
けれど、予定は決めていなかった。
ベッドから起き上がる。
カーテンを開ける。
空は明るい。
雲が少しある。
「今日は、何をしようか」
隣の部屋から美咲の声がした。
「まだ決めてない」
「私も」
美咲が笑う。
「じゃあ、二人とも暇だね」
「そうだな」
朝食を食べる。
パンを焼く。
卵を焼く。
いつもと同じ朝だった。
食べ終わっても、二人ともすぐには出かけなかった。
テレビを見る。
美咲はスマートフォンを見る。
アポロンは、昨日買った本を手に取った。
「読むの?」
「まだ読まない」
「じゃあ、何するの?」
「分からない」
「本当に何も決めてないんだね」
「そうだな」
美咲は少し考えた。
「散歩でもする?」
「いい」
二人で家を出た。
特に目的地はなかった。
駅とは反対方向へ歩く。
住宅街を抜ける。
小さな公園があった。
ベンチに座っている老人。
犬を連れて歩く人。
自転車で通り過ぎる学生。
何も起きていない。
それでも、人はそれぞれ何かをしている。
「静かだね」
美咲が言う。
「そうだな」
二人はしばらく歩いた。
商店街に着く。
店先に果物が並んでいる。
美咲が立ち止まった。
「これ、安い」
「買う?」
「どうしようかな」
「まだ決めないのか?」
「うん」
アポロンは少し笑った。
「今日は、決めないことが多いな」
「そういう日もあるよ」
結局、二人は何も買わずに歩いた。
少し先に、小さな喫茶店があった。
美咲が看板を見る。
「入ってみる?」
「知らない店だ」
「だから?」
「……入ってみよう」
店内は静かだった。
窓際の席に座る。
メニューを見る。
アポロンはしばらく眺めた。
「何にする?」
「分からない」
「じゃあ、おすすめ聞いてみようか」
店員に聞く。
今日は季節のケーキがあるらしい。
二人で一つずつ頼む。
ケーキが運ばれてくる。
アポロンは一口食べた。
「甘い」
「ケーキだからね」
「そうだな」
美咲が笑った。
店内には、他にも何人か客がいた。
隣の席では、二人の女性が話している。
少し離れた席では、一人の男性が本を読んでいる。
それぞれ別の時間を過ごしている。
同じ場所にいる。
アポロンはその光景を眺めた。
神だった頃。
世界全体を見ていた。
すべての人間がどこにいるのかも知っていた。
けれど。
今は、この店にいる人間しか見ていない。
そして、それで十分だった。
店を出る。
「次、どうする?」
美咲が聞いた。
アポロンは空を見た。
「まだ決めなくていい」
「うん」
二人は歩き始めた。
午後。
川沿いまで来た。
水面に光が反射している。
ベンチに座る。
美咲がスマートフォンを見ている。
「写真撮ろうかな」
「何を?」
「川」
「なぜ?」
「きれいだから」
美咲は写真を撮った。
「アポロンも撮る?」
「……撮ってみる」
スマートフォンを構える。
画面の中に川が映る。
アポロンはシャッターを押した。
一枚の写真が残った。
「どう?」
「同じ景色だな」
「当たり前でしょ」
美咲が笑う。
アポロンも写真を見る。
写真の中には、川しかない。
けれど。
今日、美咲とここに来たことは、この一枚を見るたびに思い出せるのかもしれない。
そう考えた。
「写真って、不思議だな」
「前にも言ってたね」
「そうだったか」
「うん」
帰り道。
夕方になっていた。
今日は特別なことをしていない。
仕事もしていない。
大きな出来事もない。
それでも。
アポロンは、今日という一日を悪くなかったと思った。
家に帰る。
夕食を作る。
食事をする。
食器を片付ける。
そして夜になる。
美咲が言った。
「今日、何したんだろうね」
アポロンは少し考えた。
「歩いた」
「うん」
「ケーキを食べた」
「うん」
「川を見た」
「うん」
「写真も撮った」
「そうだね」
「それだけだ」
美咲は笑った。
「それでいいんじゃない?」
アポロンは頷いた。
「そうだな」
ベッドに入る。
今日一日を振り返る。
神だった頃。
一日という単位に、特別な意味はなかった。
世界が動いている。
ただ、それだけだった。
今は違う。
何も起こらなかった一日にも、思い出が残る。
その日の天気。
食べたもの。
歩いた道。
誰かと交わした言葉。
そして。
「今日は何もしなかったな」
そう言えることさえ、一日の一部になる。
アポロンは目を閉じた。
明日の予定は、まだ決まっていない。
それでいい。
朝になったら、その時に決めればいい。
そう思いながら。
静かに眠りについた。




