第七章 街の中の神
翌日。
アポロンは朝から一人で街を歩いていた。
昨日までなら、街を歩くという行為に意味など感じなかった。
人間がどこへ行くのか。
何を買うのか。
どんな店に入り。
何時に帰るのか。
すべて知っていた。
だが今は違う。
目的地を決めずに歩いている。
それだけだった。
駅を出る。
大きな交差点を渡る。
コンビニに入る。
そして、何となく棚を見る。
「……」
飲み物。
弁当。
菓子。
パン。
昨日までなら、すべてただの物だった。
今は違う。
「これは何だ?」
小さな菓子を手に取る。
パッケージを見る。
甘いらしい。
アポロンはしばらく考えた。
買ってみようか。
そう思った。
しかし。
「……」
財布を取り出す。
昨日、初めて働いて得た金。
その中から、小銭を一枚取り出した。
たった数百円。
けれど。
自分で働いて得た金だった。
アポロンは少しだけ迷った。
そして。
菓子を買った。
店を出る。
袋を開ける。
一口食べる。
「……甘い」
予想通りだった。
だが。
予想通りなのに、少し嬉しい。
「知っていることと、食べることは違う」
アポロンは一人で呟いた。
その時だった。
交差点の向こうから、子どもの声が聞こえた。
「待って!」
小さな男の子が道路へ走り出していた。
信号は赤。
横から車が来ている。
周囲の人間が気づくより早く。
アポロンは立ち止まった。
世界が止まった。
車のタイヤ。
舞い上がった水。
男の子の髪。
交差点を渡ろうとしていた人間の足。
すべてが静止する。
アポロンは歩いた。
ゆっくりと。
男の子のところまで行く。
抱き上げる。
歩道へ戻す。
そして。
「続けろ」
世界が動き始めた。
車が通り過ぎる。
水が跳ねる。
人々が歩く。
誰も何が起きたのか分からない。
男の子だけが、突然歩道に立っている自分を不思議そうに見ていた。
「……あれ?」
母親が駆け寄ってくる。
「危ない!」
男の子を抱きしめる。
「どこ行ってたの!」
「分かんない……」
母親は何度も周囲を見る。
しかし。
そこには、ただの人混みしかない。
アポロンは何も言わず、その場を離れた。
角を曲がる。
そして。
自分の手を見る。
「……まだ使えるのか」
当然だった。
人間になった。
身体も変わった。
空腹も感じる。
疲労も感じる。
寒さも感じる。
だが。
神としての力まで失ったわけではない。
アポロンにとって、それは当たり前だった。
世界は彼の言葉を拒めない。
それは、人間になった今でも変わらない。
ただ。
昨日までとは違うことが一つあった。
助けたことを。
誰にも知られなくても。
少し嬉しいと思った。
「……これも、人間なのか」
そう呟いて、再び歩き始める。
しばらくすると、スマートフォンが鳴った。
美咲からだった。
『今どこですか?』
アポロンは画面を見る。
少し考えてから返信する。
『街を歩いている。』
すぐに返事が来た。
『一人で大丈夫ですか?』
『大丈夫だ。』
少し間を置いて。
『ただ、道が分からない。』
数秒後。
『それ、大丈夫じゃないじゃないですか』
アポロンは画面を見ながら、少し笑った。
『そうかもしれない。』
美咲から位置を送るように言われた。
アポロンは地図を開いた。
自分が今どこにいるのか。
地図上に表示される。
「……便利だな」
昨日買ったばかりのスマートフォン。
まだ使い方を完全には理解していない。
それでも。
少しずつ分かるようになってきた。
街を歩く。
知らない店を見る。
知らない人を見る。
知らない道を通る。
そして。
知らないものを見つける。
そのたびに、立ち止まる。
昨日までのアポロンなら、すべて知っていた。
今日は。
知らないことがある。
それが、楽しい。
やがて、美咲と合流した。
「一人でどこまで行ってたんですか?」
「分からない」
「……本当に迷ったんですね」
「ああ」
美咲はため息をついた。
「まあ、無事ならいいですけど」
アポロンは買った菓子を見せた。
「これを買った」
「お菓子?」
「美味しかった」
「よかったですね」
「それから」
アポロンは少しだけ考えた。
「子どもを一人、助けた」
「え?」
美咲が目を丸くする。
「何かあったんですか?」
「道路に出ていた」
「危なかったんですか?」
「ああ」
「アポロンさんが助けた?」
「そうだ」
美咲は少し黙った。
「……すごいですね」
アポロンは首を横に振った。
「そうでもない」
「でも、助けたんでしょう?」
「当然だ」
「当然?」
アポロンは答えなかった。
神だった頃。
人間を守ることは、彼にとって義務だった。
世界の秩序を維持するため。
人間を生かすため。
それが神の役割だった。
だが今は。
違う。
あの子を助けた時。
義務だからではなかった。
助けたかった。
ただ、それだけだった。
アポロンは少し考えてから言った。
「……助けたかった」
美咲は何も言わなかった。
ただ、優しく笑った。
「それなら、いいんじゃないですか」
アポロンはその言葉を聞いて、空を見上げた。
青い空だった。
神だった頃。
空はただの空だった。
今は。
少し眩しい。
そして。
少し綺麗だった。
「美咲」
「はい?」
「人間は、不思議だな」
「またですか?」
「ああ」
アポロンは笑った。
「まだ、よく分からない」
それでも。
分からないことがあることを。
もう嫌だとは思わなかった。




