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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第六章 初めての仕事

仕事を探し始めてから、三日が経った。


アポロンは、いくつかの仕事を見た。


飲食店。


倉庫。


清掃。


コンビニ。


どこへ行っても、同じようなことを聞かれた。


「これまで、どんな仕事をしていましたか?」


その質問をされるたび、アポロンは少し考えた。


「……仕事はしていない」


「学生さんですか?」


「違う」


「では、何をしていたんですか?」


「世界を見ていた」


もちろん。


そんな答えを言えば、誰も信じない。


美咲は隣で何度も苦笑していた。


「アポロンさん」


「何だ?」


「もう少し普通に答えてください」


「嘘をつくのか?」


「嘘というより……説明を簡単にするんです」


「なるほど」


アポロンは頷いた。


人間の社会では、すべての事実をそのまま伝える必要はないらしい。


それも、初めて知ったことだった。


そして今日。


二人は一軒の小さな食堂を訪れていた。


店の前には、「アルバイト募集」と書かれた紙が貼られている。


「ここなら、働けるかもしれません」


美咲が言った。


アポロンは店を見た。


十席ほどの小さな店。


厨房から料理の匂いがする。


店主らしい男性が、一人で料理を作っていた。


「入ってみましょう」


「分かった」


店の扉を開ける。


「いらっしゃいませ」


店主が顔を上げた。


美咲が事情を説明する。


店主はアポロンを見る。


「日本語は大丈夫?」


「問題ない」


「接客経験は?」


「ない」


「飲食店は?」


「ない」


「アルバイトは?」


「ない」


「……」


店主が困った顔をした。


「じゃあ、何ができます?」


アポロンは少し考えた。


「何でもできる」


美咲が横から小声で言った。


「アポロンさん……」


店主は苦笑した。


「何でも、ねえ」


「本当だ」


「じゃあ、皿洗いからやってみます?」


「分かった」


それが。


アポロンの初めての仕事になった。


エプロンを着る。


手を洗う。


そして、流し台の前に立つ。


目の前には、大量の皿が積まれていた。


アポロンはそれを見つめた。


「……多いな」


「最初はみんなそう思いますよ」


美咲が笑った。


「頑張ってください」


アポロンは頷いた。


皿を一枚手に取る。


スポンジに洗剤をつける。


水を流す。


こする。


泡が出る。


皿が綺麗になる。


それだけの作業だった。


しかし。


不思議だった。


神だった頃。


アポロンは、一瞬で何万もの物質を変化させることができた。


言葉一つで、山を消すこともできる。


時間を止めることもできる。


世界そのものを作り直すことすらできる。


それなのに。


今は。


一枚の皿を、自分の手で洗っている。


「……」


二枚目。


三枚目。


四枚目。


しばらくすると、店主が様子を見に来た。


「どうです?」


「問題ない」


「疲れませんか?」


「少し」


その言葉に、店主が驚いた。


「疲れるんですか?」


「ああ」


アポロンは自分の手を見た。


少し赤くなっている。


水に長く触れていたせいだ。


「これが疲労か」


「……大丈夫ですか?」


「問題ない」


店主は少し笑った。


「じゃあ、休憩してください」


「休憩?」


「疲れたら休むんですよ」


アポロンは椅子に座った。


水を一杯もらう。


飲む。


冷たい水が身体に入っていく。


その瞬間。


昨日のラーメンとは違う、奇妙な満足感があった。


「……仕事の後の水は、美味しいな」


店主が笑った。


「それなら、働いた意味がありましたね」


アポロンはその言葉を聞いて、少し考えた。


働いた意味。


結果があった。


自分の手で皿を洗った。


その結果、店の皿が綺麗になった。


そして、その仕事の後に水を飲む。


ただそれだけ。


だが。


それが悪くなかった。


午後になると、店が混み始めた。


注文が次々に入る。


店主が料理を作る。


アポロンが皿を運ぶ。


客が食事をする。


空いた皿を下げる。


洗う。


また使う。


店の中を、小さな流れが循環していた。


「ラーメン一つ!」


「はい!」


「定食お願いします!」


「はい!」


アポロンも動いた。


最初は遅かった。


しかし。


何度か繰り返すうちに、身体が覚えていく。


皿を置く場所。


料理を運ぶ順番。


客の動き。


厨房の音。


店主の声。


すべてが少しずつ繋がっていく。


そして。


夕方。


最後の客が帰った。


店内が静かになる。


アポロンは椅子に座った。


「終わった……」


店主が笑う。


「お疲れさまでした」


「これが……お疲れさまでした、か」


「そうですよ」


アポロンはその言葉を何度か繰り返した。


「お疲れさまでした」


それは、今日初めて聞いた言葉だった。


そして。


今日初めて、自分自身に向けられた言葉だった。


店主が封筒を一つ差し出した。


「今日は短時間でしたけど、これ」


アポロンは受け取った。


中には、今日働いた分の給料が入っていた。


紙幣。


それを見つめる。


「これが……」


「給料です」


「私が働いた対価か」


「そうです」


アポロンはしばらく黙っていた。


神だった頃。


人間は彼に祈りを捧げていた。


供物を置いた。


願いを託した。


だが。


今、手の中にあるものは違う。


これは。


自分の時間と労力と引き換えに得たものだった。


「……悪くない」


店主が笑った。


「気に入りました?」


「少しだけ」


店を出る。


外はもう暗くなっていた。


美咲が待っていた。


「どうでした?」


アポロンは封筒を見せた。


「初めて、働いて金を得た」


「お疲れさまでした」


その言葉を聞いた瞬間。


アポロンは少しだけ笑った。


「……ありがとう」


美咲も笑った。


二人は並んで歩き始めた。


しばらく歩いたところで、アポロンが言った。


「美咲」


「はい?」


「明日は、何をしようか」


美咲は少し考えた。


「仕事を探してもいいし、街を見て回ってもいいと思います」


「そうか」


アポロンは夜空を見上げた。


神だった頃には、明日の予定を決める必要などなかった。


未来はすでに存在していた。


だが今は。


明日がまだ来ていない。


だから。


自分で決めることができる。


「では、明日は街を歩こう」


「いいですね」


「その後、何か食べよう」


「何を食べます?」


アポロンは少し考えた。


そして。


「明日になってから決める」


美咲が笑った。


「それが一番、人間らしいかもしれませんね」


アポロンは何も答えなかった。


ただ。


明日が来ることを、少し楽しみにしていた。

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