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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第五章 人間の財布

翌朝。


アポロンは目を覚ました。


しばらく天井を見つめる。


知らない天井だった。


知らない部屋。


知らない匂い。


そして。


知らない身体。


昨日までの自分なら、そんなものは存在しなかった。


だが今は違う。


身体が重い。


少し喉が渇いている。


そして。


腹が減っていた。


「……腹が減った」


アポロンは起き上がった。


その瞬間。


腹の中から、小さな音がした。


「……」


自分の身体から出た音に、アポロンはしばらく黙っていた。


やがて。


「これが、空腹か」


少しだけ笑った。


昨日、ラーメンを食べた。


美味しかった。


だから今日も何か食べたい。


それだけのことが、なぜか楽しみだった。


部屋を出る。


昨日、美咲が用意してくれた簡単な朝食がテーブルの上に置かれていた。


小さなパン。


牛乳。


そして、メモが一枚。


『朝、食べてください。私は仕事に行ってきます。』


アポロンはメモを読んだ。


「仕事……」


人間には、自分のためだけではない時間がある。


誰かのために働く。


誰かからお金を受け取る。


そのお金で食べ物を買う。


そうして、また明日を生きる。


昨日から何度も聞いている。


「いただきます」


アポロンはパンを手に取った。


一口食べる。


柔らかい。


少し甘い。


昨日のラーメンとは違う。


「……これも悪くない」


食べ終わると、牛乳を飲んだ。


冷たい。


喉を通っていく感覚が分かる。


アポロンは空になった容器を見つめた。


神だった頃。


彼は食事を必要としなかった。


だから、食べ終わるという感覚も知らなかった。


今は違う。


空腹になり。


食べて。


満腹になる。


それだけの循環が、妙に面白かった。


しばらくして、美咲から連絡が来た。


「スマホ、買いに行きましょう」


アポロンは駅前で美咲を待った。


しばらくすると、美咲が走ってきた。


「すみません、待ちました?」


「待った」


「どれくらい?」


「二十三分」


「……正確ですね」


「時間は測っていた」


「怒ってます?」


「いや」


アポロンは首を横に振った。


「待つというのも、悪くない」


「どういう意味ですか?」


「誰かを待っている間、その人が来ることを考える」


美咲は少し黙った。


「……それも、楽しみってことかもしれませんね」


「そうかもしれない」


二人は携帯電話の店に入った。


アポロンは棚に並んだスマートフォンを見た。


性能。


価格。


通信規格。


記憶容量。


カメラ。


すべて理解できる。


「これが一番性能が高い」


アポロンが一台を指差した。


「そうですね」


「では、これを買う」


「高いですよ」


「いくらだ?」


美咲が値段を見せる。


アポロンは黙った。


「……高い」


「ですよね」


「しかし性能は高い」


「今のアポロンさんには必要ないと思います」


「なぜ?」


「電話とメッセージができれば十分です」


アポロンは少し考えた。


「なるほど」


「性能が高ければいい、というわけじゃないんですよ」


「……人間は複雑だな」


「スマホ一台でそこまで考えなくてもいいです」


結局、手頃な機種を選んだ。


そして。


問題が一つ残った。


「金がない」


アポロンが言った。


「そうなんです」


美咲も困った顔をした。


「だから、まず仕事です」


「仕事」


「はい」


店を出る。


駅前のベンチに座り、美咲がスマートフォンを操作した。


「アルバイトなら、いくつかありますよ」


画面を見せる。


飲食店。


コンビニ。


倉庫。


清掃。


工場。


アポロンは一つずつ見た。


「どれがいい?」


「それはアポロンさんが決めることです」


「判断材料が足りない」


「じゃあ、見に行ってみます?」


「そうしよう」


二人は近くの求人先をいくつか見て回った。


飲食店では忙しそうな店員が走り回っていた。


コンビニでは客が途切れなかった。


倉庫では大きな荷物が運ばれている。


アポロンはそれらを静かに眺めた。


「どこも大変そうですね」


美咲が言った。


「そうだな」


「働くって、そういうことです」


アポロンは黙った。


働く。


人間は自分の時間を使って、誰かの役に立つ。


その対価として金を得る。


そして、その金で別の誰かが作ったものを買う。


食べる。


眠る。


また働く。


世界は、そういう小さな契約の積み重ねで動いている。


神だった頃のアポロンは、そんな仕組みをすべて知っていた。


だが。


知っていることと。


その中に入ることは、やはり違った。


「アポロンさん?」


「何だ?」


「どうしました?」


「人間は、不思議だと思った」


「また難しいこと考えてます?」


「いや」


アポロンは街を見た。


通勤する人。


買い物をする人。


子どもを連れた親。


信号を待つ老人。


誰もが、自分の一日を生きている。


「人間は、自分の生活を自分で支えている」


美咲は少し笑った。


「当たり前ですよ」


「私には、それが新しい」


「……そうですか」


アポロンは頷いた。


「だから、やってみたい」


「何を?」


「働くことを」


美咲は少し驚いた。


「本当に?」


「ああ」


「大丈夫ですか?」


「何が?」


「仕事って、楽しいことばかりじゃないですよ」


アポロンは少し考えた。


「それも、やってみなければ分からない」


美咲は笑った。


「それなら、探しましょう」


その瞬間。


アポロンのスマートフォンが鳴った。


昨日買ったばかりの、まだ誰の連絡先も入っていないスマートフォン。


画面には一件の通知が表示されていた。


美咲からだった。


『今日は何を食べますか?』


アポロンは画面を見つめた。


そして。


昨日より少しだけ速く返信した。


『まだ分からない。』


少し考えてから、もう一行追加する。


『でも、楽しみだ。』


送信。


それだけだった。


けれど。


その小さな文章を送ったことが、なぜか嬉しかった。


神だった頃には。


誰かに連絡する必要などなかった。


誰かが何を思っているのか、知っていたからだ。


今は違う。


知らない。


だから、聞く。


待つ。


返事を待つ。


そして、返ってきた言葉を嬉しいと思う。


アポロンはスマートフォンをポケットにしまった。


「さて」


「はい?」


「仕事を探そう」


美咲は笑った。


「はい」


二人は駅前の人混みの中へ歩いていった。


その日。


世界で最も強い存在だった神は。


初めて、自分で仕事を探し始めた。

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