第四章 明日の予定
食堂を出てから、美咲とアポロンは駅の方へ向かって歩いていた。
雨上がりの道路には、まだ水たまりが残っている。
車が通るたび、水が小さく跳ねた。
アポロンはそれを避けながら歩いていた。
「アポロンさん」
「何だ?」
「今日、泊まるところは本当にないんですよね?」
「ああ」
「ホテルも?」
「ない」
「友達は?」
「いない」
「家族は?」
アポロンは少し考えた。
「……いない」
美咲は黙った。
「仕事は?」
「ない」
「お金は?」
「ない」
「スマホは?」
「ない」
美咲は立ち止まった。
「……何もないじゃないですか」
「そうだな」
「そうだな、じゃないですよ」
アポロンは美咲を見る。
「何か問題があるのか?」
「ありますよ」
「何が?」
「今日の夜、どこで寝るんですか?」
アポロンは空を見上げた。
「外でも構わない」
「ダメです」
即答だった。
「なぜ?」
「風邪をひきます」
「風邪なら治せる」
「そういう問題じゃありません」
「では、何の問題だ?」
美咲は少し困った顔をした。
「……人間は、普通そういう生活をしないんです」
アポロンは黙った。
普通。
今日、何度も聞いた言葉だった。
「普通とは何だ?」
「え?」
「人間は普通に食事をする。普通に家へ帰る。普通に仕事をする。普通に眠る」
「まあ……そうですね」
「なら、普通でない人間はどうする?」
美咲はすぐには答えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「その人によって違いますよ」
「そうか」
「だから、アポロンさんも考えればいいんです」
「何を?」
「明日、どうするか」
アポロンはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
明日。
また、その言葉だった。
「明日は……」
彼は考えた。
神だった頃なら、明日の予定など考える必要はなかった。
すべてを知っていた。
世界の天候も。
人間の行動も。
国の出来事も。
誰がどこへ行き、何を話し、何を選ぶのかも。
予定とは、知らない未来を管理するためのものだ。
未来を知らない人間だからこそ、予定を立てる。
しかし今の自分には、その未来がない。
「仕事を探す」
アポロンは言った。
美咲が少し驚いた。
「仕事?」
「ああ」
「どうして?」
「食事には金が必要だ」
「……それはそうですね」
「住む場所にも必要だ」
「はい」
「なら、金を得る必要がある」
「すごく普通の結論ですね」
「普通なのか?」
「普通です」
アポロンは頷いた。
「では、明日は仕事を探す」
美咲は少し笑った。
「いいと思います」
「何か仕事を知っているか?」
「すぐに思いつくものはないですけど……」
美咲はスマートフォンを取り出した。
その小さな画面を、アポロンはじっと見つめた。
「それは?」
「スマホです」
「情報端末だな」
「……知ってるんですね」
「存在は知っている」
「じゃあ、使い方は?」
「知らない」
美咲は笑った。
「それなら、明日はまずスマホですね」
「なぜ?」
「仕事を探すにも必要ですし、連絡先も必要です」
「なるほど」
美咲は画面を操作した。
「あと、住むところも探さないと」
「そうだな」
「服も」
「今の服では問題があるのか?」
「かなりあります」
アポロンは自分の服を見た。
雨に濡れた衣服。
神だった頃には、それを問題だと思ったことはなかった。
人間として見ると、確かに街の人間とは少し違う。
「では、服も必要だ」
「はい」
「スマホも必要」
「はい」
「住む場所も必要」
「はい」
「仕事も必要」
「はい」
アポロンは少し考えた。
「人間は大変だな」
美咲が吹き出した。
「今さらですか?」
「ああ」
アポロンは真剣な顔で答えた。
「生きるだけで、これほど多くのものが必要だとは知らなかった」
美咲は笑いながら言った。
「でも、それが普通なんですよ」
「そうか」
二人は再び歩き始めた。
駅前まで来ると、人の流れが増えていた。
仕事を終えた人。
学校帰りの学生。
買い物袋を持った人。
誰もがそれぞれの場所へ帰っていく。
アポロンはその光景を眺めた。
一人ひとりに予定がある。
帰る場所がある。
明日の仕事がある。
誰かと会う約束がある。
あるいは、何もない。
それでも明日は来る。
「美咲」
「はい?」
「人間は、明日のことを考えるのが好きなのか?」
美咲は少し考えた。
「人によると思います」
「そうか」
「でも、楽しみな予定があると、明日が楽しみになりますよ」
「楽しみな予定?」
「はい」
美咲はスマートフォンをしまった。
「例えば、明日好きなものを食べるとか。誰かと会うとか。休みの日に出かけるとか」
アポロンは黙って聞いていた。
「そういう小さなことでも、明日が楽しみになるんです」
「……小さなこと」
「そうです」
アポロンは駅の時計を見た。
もう夜だった。
今日という日は、もうすぐ終わる。
そして。
明日が来る。
彼は初めて、明日のことを考えた。
明日はスマートフォンを買う。
服を買う。
仕事を探す。
そして。
何かを食べる。
何を食べるかは、まだ決めていない。
それが少し楽しみだった。
「美咲」
「はい?」
「明日は何を食べる?」
美咲は一瞬きょとんとした。
そして笑った。
「それ、今から考えるんですか?」
「重要な問題だ」
「じゃあ、明日になってから決めましょう」
「なぜ?」
「その時に食べたいものが変わるかもしれないから」
アポロンは黙った。
その言葉が、不思議と心に残った。
明日になれば。
今日とは違う自分がいるかもしれない。
今日とは違う気分かもしれない。
今日とは違うものを食べたくなるかもしれない。
それはつまり。
明日の自分ですら、今の自分には分からないということだった。
アポロンは小さく笑った。
「……それも悪くないな」
「何がです?」
「明日にならなければ分からないことがある」
美咲は何も言わなかった。
ただ、隣を歩いた。
駅の明かりが二人を照らしている。
神だった頃のアポロンは、世界のすべてを知っていた。
けれど今夜。
彼は初めて、
知らない明日を待っていた。




