第三章 初めての食事
「じゃあ、とりあえず今日はご飯食べましょう」
美咲はそう言って歩き始めた。
アポロンは、その後ろをついていく。
「どこへ行く?」
「ご飯を食べるところ」
「食堂か?」
「まあ、そんな感じです」
「食事にはどれくらい時間が必要だ?」
美咲が振り返った。
「……時間?」
「人間は食事をする必要がある。ならば、必要な時間があるはずだ」
「いや、そんなに難しく考えなくてもいいですよ」
「そうなのか?」
「そうですよ」
美咲は笑った。
「お腹が空いたら食べる。それだけです」
アポロンは黙った。
腹が空く。
その感覚を、彼は知識として知っている。
血糖値が低下する。
胃が収縮する。
身体が栄養を求める。
だが。
「……腹が空いた」
突然、アポロンが言った。
美咲が足を止めた。
「え?」
「腹が空いた」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、何か食べたいものあります?」
「分からない」
「またそれですか」
美咲は笑いながら、近くの店を指差した。
「じゃあ、今日は私に任せてください」
二人は小さな食堂に入った。
店内には数人の客がいた。
仕事帰りらしい男性。
学生らしい若者。
一人で食事をしている女性。
誰もアポロンを気にしていない。
それが、アポロンには少し不思議だった。
神だった頃。
彼が姿を現せば、世界中の人間がその存在を感じ取った。
祈る者もいた。
恐れる者もいた。
跪く者もいた。
だが今は違う。
誰も彼を見ない。
誰も彼を恐れない。
誰も彼を必要としない。
「ここ、座ってください」
美咲が席を指した。
アポロンは椅子に座った。
硬い。
少し冷たい。
これも知っている。
だが、やはり実際に座るのは初めてだった。
美咲がメニューを開く。
「何にします?」
アポロンはメニューを見た。
文字。
写真。
値段。
料理の名前。
すべて理解できる。
「一番人気はこれだ」
「……調べたんですか?」
「いや」
「じゃあ、なんで分かるんです?」
「分かるからだ」
「それ、答えになってないですよ」
美咲は苦笑した。
「じゃあ、これにしましょう」
彼女が指差したのは、ラーメンだった。
「ラーメン?」
「はい。嫌いですか?」
「食べたことがない」
「じゃあ、ちょうどいいですね」
注文を終えてしばらくすると、二人の前にラーメンが運ばれてきた。
湯気が立っている。
スープの香り。
麺。
肉。
野菜。
アポロンはじっと見つめた。
「……これを食べるのか?」
「はい」
「どのように?」
美咲が箸を持った。
「こうです」
麺をすくい上げる。
「そして食べる」
「なるほど」
アポロンも箸を持った。
しかし。
動かない。
「……どうしました?」
「難しい」
「箸が?」
「そうだ」
「初めてなら仕方ないですよ」
アポロンは箸を見つめた。
世界を創造した神が。
一本の麺を持ち上げることができない。
それが、妙におかしかった。
美咲が笑い始めた。
「ちょっと……」
「何だ?」
「ごめんなさい。でも……」
美咲は笑いながら言った。
「そんな真剣な顔で箸と戦う人、初めて見ました」
アポロンは少し考えた。
そして。
「……面白いな」
「何がです?」
「できないことがある」
美咲は一瞬、黙った。
アポロンは箸を握り直した。
今度は少しだけうまくいった。
麺を一本、持ち上げる。
「おお」
美咲が小さく拍手した。
「できましたね」
アポロンは麺を見る。
たった一本。
それなのに。
なぜか嬉しかった。
「……そうか」
アポロンは麺を口に入れた。
熱い。
舌が熱を感じる。
スープの味。
麺の食感。
そして、鼻に抜ける香り。
アポロンは目を閉じた。
「……」
「どうです?」
アポロンはすぐには答えなかった。
神だった頃、彼は世界中の食べ物を知っていた。
人間が何を美味しいと感じるのかも知っていた。
しかし。
これは知らなかった。
「美味しい」
それは、知識ではなかった。
感覚だった。
美咲が笑う。
「よかった」
アポロンはもう一口食べた。
そして、もう一口。
気づけば、箸を動かす速度が少しずつ速くなっていた。
「……アポロンさん」
「何だ?」
「そんなに気に入りました?」
「分からない」
「また?」
「だが」
アポロンはラーメンを見た。
「もう一度食べたいと思っている」
美咲は少し驚いた。
そして、笑った。
「それが好きってことですよ」
「好き……」
アポロンはその言葉を繰り返した。
好き。
これまで何度も聞いた言葉。
だが今。
初めて、その意味を自分の中で感じた気がした。
食事を終える。
美咲が会計をしようと財布を取り出した。
「待て」
アポロンが言った。
「どうしました?」
「私が払う」
「お金ないじゃないですか」
「……」
アポロンはポケットを探った。
やはり何もない。
美咲が笑う。
「じゃあ、今日は私のおごりです」
「借りになる」
「別にいいですよ」
「しかし――」
「じゃあ」
美咲は少し考えた。
「今度、アポロンさんが誰かにご飯をおごってあげてください」
「それでいいのか?」
「はい」
アポロンは頷いた。
「分かった」
店を出る。
雨はいつの間にか止んでいた。
夜の街には、濡れた道路が街灯を映している。
アポロンは歩きながら、ふと空を見上げた。
雲の隙間から、星が一つ見えていた。
神だった頃なら。
その星がどこにあり。
いつ生まれ。
いつ消えるのか。
すべて知っていた。
だが今は。
ただ綺麗だと思った。
「……明日は何を食べよう」
その言葉が、自然に口から出た。
美咲が隣で笑った。
「明日も食べるつもりなんですね」
「当然だ」
「じゃあ、明日も楽しみですね」
アポロンは歩きながら、少しだけ考えた。
明日。
その言葉には、未来が含まれている。
未来を知っている神にとって、明日はただの確定事項だった。
しかし今は違う。
明日、何を食べるのか。
誰に会うのか。
何が起こるのか。
まだ分からない。
アポロンは初めて、
その「分からない」を楽しみにしていた。




