第二章 自動販売機の向こう側
自動販売機。
アポロンは、その四文字を知っていた。
もちろん知っている。
人間が貨幣を投入し、飲み物や食べ物を購入するための装置。
仕組みも知っている。
電力の流れも。
内部の構造も。
商品の在庫数も。
どのボタンを押せば、何が出てくるのかも。
それなのに。
「……どうやって使う?」
アポロンは、自動販売機の前に立ったまま動かなかった。
通り過ぎる人々が、何人か彼を見ていく。
しかし、アポロンは気にしなかった。
目の前にある赤いボタン。
青いボタン。
温かい飲み物。
冷たい飲み物。
人間はこれを使っている。
ならば、自分も使えばいい。
アポロンはポケットに手を入れた。
何もない。
当然だった。
人間になったばかりの彼は、金を持っていない。
「……貨幣が必要なのか」
そう呟いた。
すると。
「お兄さん」
後ろから声がした。
アポロンが振り返る。
さっきの女性だった。
「まだいたんですか?」
「いる」
「何してるんです?」
「飲み物を買おうとしている」
「……買おうとしてるようには見えませんけど」
アポロンは自動販売機を指差した。
「貨幣が必要らしい」
「そりゃそうですよ」
女性は少し笑った。
「もしかして、お金持ってないんですか?」
「持っていない」
「財布は?」
「ない」
「スマホは?」
「ない」
女性は黙った。
そして、アポロンの顔をじっと見る。
「……大丈夫ですか?」
「問題ない」
「いや、問題ありますよ」
彼女は小さくため息をついた。
「何か食べました?」
「食べていない」
「今日?」
「今日も」
「昨日は?」
「食べていない」
「……昨日も?」
「その前の日も」
女性は頭を抱えた。
「ちょっと待ってください」
彼女は鞄から財布を取り出した。
そして、自動販売機に硬貨を入れる。
「どれがいいですか?」
アポロンは商品を眺めた。
「分からない」
「じゃあ、好きなの選んでください」
「好き、という感覚が分からない」
女性の手が止まった。
「……変な人ですね」
「そうかもしれない」
「じゃあ、これ」
女性が温かい缶コーヒーのボタンを押した。
ガコン。
缶が落ちる。
彼女はそれを取り出し、アポロンに渡した。
「はい」
アポロンは缶を受け取った。
温かい。
その熱が手のひらに伝わってくる。
「……温かい」
「そりゃホットですから」
「そういう意味ではない」
「え?」
アポロンは缶を両手で包んだ。
温度。
重さ。
表面についた小さな水滴。
どれも知識としては知っている。
しかし、手のひらから伝わる感覚は、知識とは違っていた。
「……これが、飲み物を買うということか」
「いや、そこまで大げさなことじゃないですけど」
女性は笑った。
アポロンは缶を見つめた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に、奇妙な感覚が生まれた。
小さな熱。
先ほどまでの雨の冷たさとは違う。
缶の温度とも違う。
アポロンは胸に手を当てた。
「……何だ、これは」
「どうしました?」
「分からない」
「え?」
「分からないことがある」
女性は少し驚いた顔をした。
そして、笑った。
「それくらい普通ですよ」
普通。
その言葉が、また胸に残った。
神だった頃。
分からないことなどなかった。
しかし今は違う。
分からない。
知らない。
選べない。
そして、それが不快ではない。
むしろ。
少しだけ面白い。
「ところで」
女性が言った。
「あなた、どこから来たんですか?」
アポロンは答えようとして、止まった。
神界。
そう答えることはできる。
しかし、人間の世界には神界という住所は存在しない。
「……遠いところから」
「海外?」
「もっと遠い」
「宇宙?」
「それよりも遠い」
女性は笑った。
「何それ」
アポロンは真面目な顔をしていた。
女性はその顔を見て、さらに笑った。
「本当に変な人ですね」
「そうか」
「名前は?」
「アポロン」
「……え?」
「アポロン」
女性は少し考えた。
「外国人?」
「そういうことにしておこう」
「じゃあ、私は美咲」
彼女はそう名乗った。
「よろしくお願いします、アポロンさん」
アポロンは彼女を見た。
美咲。
人間の名前。
たった三文字の名前なのに。
なぜか、その名前を忘れたくないと思った。
「よろしく」
美咲は時計を見た。
「じゃあ、私は本当に行きますね」
「分かった」
「アポロンさん」
「何だ?」
「ホテルとかあります?」
「ない」
「家は?」
「ない」
「仕事は?」
「ない」
美咲の表情が固まった。
「……もしかして」
アポロンは彼女を見る。
「あなた、今日から人間になったんですか?」
「……」
アポロンは初めて、人間の言葉にどう答えればいいのか分からなかった。
そして。
神になってから初めて。
嘘をついた。
「……そうかもしれない」
美咲は、しばらく彼を見つめた。
そして、小さく笑った。
「じゃあ、とりあえず今日はご飯食べましょう」
雨は、まだ降っていた。
けれど。
アポロンはもう、寒いとは思わなかった。




