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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第一章 神は人間を知らない

神は、人間を知っている。


人間がどこから生まれ、どのように生き、何を恐れ、何を求め、何を失うのか。


すべてを知っている。


人間が初めて火を手にした日も。


初めて海を渡った日も。


初めて誰かを愛した日も。


そして、初めて誰かを失った日も。


アポロンは、すべてを見ていた。


人間が生まれる前から。


人間が文明を築く前から。


この世界そのものが形を持つよりも、ずっと前から。


だから、アポロンは自分が人間を理解していると思っていた。


少なくとも、これまで疑ったことはなかった。


人間は生きる。


食べる。


眠る。


働く。


誰かを愛する。


子を産む。


老いる。


そして死ぬ。


それは世界に組み込まれた、ごく自然な循環だった。


アポロンにとって、人間の感情さえも同じだった。


喜び。


怒り。


悲しみ。


恐怖。


愛情。


嫉妬。


それぞれの発生条件も、脳内で起こる反応も、その後に人間が取る行動も、すべて知っている。


だからこそ、アポロンは長い間、人間に興味を持つ必要がなかった。


人間が何をするのか。


その先に何が起こるのか。


すべて知っていたからだ。


しかし。


ある日。


ほんの些細なことが、彼の中に残った。


一人の老人が、病室の窓から外を眺めていた。


老人は、もう長くは生きられない。


アポロンには分かっていた。


あと三日。


長くても四日。


老人自身も、それを知っていた。


それでも老人は、毎朝同じ時間になると窓を開ける。


そして、外を眺める。


その日も老人は空を見上げていた。


「明日は晴れるかな」


誰に言うでもなく、老人は呟いた。


アポロンには、明日の天気も分かっていた。


雨になる。


昼過ぎから強く降る。


だが老人は知らない。


知らないまま、明日を待っている。


その姿を見たとき、アポロンは初めて思った。


――なぜだ?


明日が分からないことが、そんなに重要なのか。


答えは見つからなかった。


神にとって、未知とは存在しないものだった。


未来はすでに存在している。


だから、知ることができる。


知ることができるなら、不安になる必要もない。


待つ必要もない。


期待する必要もない。


それが当然だと思っていた。


しかし、人間は違う。


人間は明日を知らない。


それなのに、明日を待っている。


その矛盾が、アポロンには理解できなかった。


それから長い時間が過ぎた。


そして、ある日。


アポロンは決めた。


「一度、人間になってみよう」


それは誰かに命じられたわけでもない。


誰かに誘われたわけでもない。


世界を救うためでもない。


ただ、自分自身が知りたかった。


人間として生きるとは、何なのか。


神として観察するのではなく。


人間として。


食べて。


眠って。


歩いて。


働いて。


笑って。


怒って。


悲しんで。


そして、自分自身の知らない明日を迎えてみたい。


その瞬間。


世界のどこかで、何かが静かに変わった。


神が、神であることをやめた。


そして。


人間が一人、この世界に生まれた。


◇


「……雨か」


アポロンは空を見上げた。


灰色の雲から、細い雨が落ちている。


傘を持っていない人々が、駅の入口へ向かって走っていた。


誰かは鞄を頭の上に乗せている。


誰かは、隣の人間と一つの傘に入っている。


誰かは携帯電話を耳に当てながら、何度も時計を確認している。


そして、誰かは雨に濡れながら笑っていた。


アポロンは、その光景を黙って眺めていた。


雨そのものは知っている。


気温も。


湿度も。


風向きも。


雲の動きも。


この雨がいつ弱まり、いつ止むのかも知っている。


だが。


「……寒い」


その言葉が、自分の口から出たことに、アポロンは少し驚いた。


寒い。


人間がよく使う言葉だ。


今まで何度も聞いてきた。


だが、自分が使ったことはなかった。


神にとって、寒さとは単なる現象だった。


温度が下がる。


身体から熱が失われる。


風が皮膚に触れる。


それだけのこと。


ところが今は違った。


指先が冷たい。


服が雨に濡れている。


靴の中に入った水が、足を不快にさせている。


その不快感を、アポロンはしばらく黙って受け入れていた。


「……これが、人間か」


そのときだった。


「すみません」


声がした。


アポロンが振り向く。


透明な傘を持った女性が立っていた。


「傘、ないんですか?」


「ない」


「……ずぶ濡れですよ」


「そうだな」


女性は困ったように笑った。


「いや、そうだなじゃなくて……」


彼女は少し考えてから、傘をアポロンのほうへ傾けた。


「駅までなら、一緒に入ります?」


アポロンは彼女を見た。


「なぜ?」


「え?」


「なぜ私を助ける?」


女性は、しばらく黙った。


そして、不思議そうな顔をした。


「……困ってそうだったから?」


「それだけ?」


「それだけですけど」


アポロンには、その答えが理解できなかった。


人間が他人を助ける。


そこには何か理由があるはずだった。


利益。


契約。


義務。


恩。


あるいは、将来の利益。


だが、この女性は何も求めていない。


ただ、傘を少し傾けただけだった。


「どうします?」


アポロンは、傘を見た。


そして女性を見た。


「……行こう」


「はい」


二人は歩き始めた。


傘の下は狭かった。


肩が時々触れる。


そのたびに、女性は少しだけ傘を動かした。


アポロンは何も言わなかった。


駅までの距離は三百二十七メートル。


歩けば三分二十秒。


正確には、女性の歩幅なら三分二十四秒。


アポロンには分かっている。


しかし、その三分二十四秒は妙に長かった。


雨の音。


濡れた道路。


車の音。


人の足音。


傘に落ちる水滴。


そして、自分の隣を歩く人間の体温。


アポロンは、それらを一つずつ感じていた。


「……変だな」


「何がですか?」


「いや」


アポロンは答えなかった。


世界を知ることと。


世界を生きることは。


どうやら同じではないらしい。


駅に着くと、女性は傘を閉じた。


「じゃあ、私はこっちなので」


「そうか」


「はい」


女性は数歩歩いた。


そして、何かを思い出したように振り返る。


「あの」


「何だ?」


「風邪、ひかないようにしてくださいね」


それだけ言って、女性は人混みの中へ消えていった。


アポロンは、その背中を見つめていた。


風邪。


人間の身体に起こる病気。


もちろん知っている。


症状も原因も治療法も、すべて知っている。


それなのに。


今の言葉だけが、妙に胸に残った。


「……風邪をひかないように、か」


アポロンは空を見上げた。


雨はまだ降っている。


そして。


駅の向こう側に、一台の自動販売機があった。


赤い光。


青い光。


並んだ飲み物。


アポロンは、しばらくそれを見ていた。


「……あれは何だ?」


人間になって初めて。


神は、自動販売機の前で立ち止まった。

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