第六十四章 同じものを見る
家に着くと、美咲は台所に立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「何食べる?」
アポロンは冷蔵庫を開けた。
卵。
野菜。
豆腐。
昨日買ったものがいくつか残っている。
「何でもいい」
「それ、一番困るやつ」
「では、何が食べたい?」
「うーん……」
美咲も冷蔵庫を覗き込んだ。
「今日は鍋にしようか」
「鍋?」
「簡単だし」
「分かった」
二人で材料を切る。
アポロンは野菜を切り、美咲は鍋を準備する。
「それ、大きすぎない?」
「そうか?」
「もう少し小さく」
「こう?」
「うん。それくらい」
アポロンは切った野菜を見た。
「料理は、同じ材料でも切り方で違うんだな」
「当たり前じゃない?」
「私は知らなかった」
「アポロンって、変なところ知らないよね」
「そうかもしれない」
鍋に材料を入れる。
火をつける。
しばらくすると、部屋に温かい匂いが広がった。
二人で食卓につく。
「いただきます」
「いただきます」
最初の一口を食べる。
「おいしい」
「うん」
美咲が笑う。
「今日は普通だね」
「普通?」
「うん。特別なことがない」
アポロンは鍋を見た。
特別なことはない。
大きな事件もない。
誰かが困っているわけでもない。
ただ、一緒に夕食を食べている。
それだけだった。
けれど。
神だった頃のアポロンには、こういう時間がなかった。
世界を作ることはできた。
天候を変えることもできた。
人間の願いを知ることもできた。
それでも。
一つの鍋を囲んで、誰かと同じものを食べることはなかった。
「美咲」
「ん?」
「人間にとって、普通の日って大事なのか?」
美咲は少し考えた。
「どうだろう」
「分からない?」
「うん。普通すぎて、考えたことない」
アポロンは頷いた。
「そういうものか」
「でも、あとから思い出すことはあるかも」
「今日のような日を?」
「うん」
美咲は豆腐を取った。
「何を食べたとか、何を話したとか、全部は覚えてなくてもさ」
「それでも?」
「一緒にいたことは残るんじゃない?」
アポロンは黙った。
一緒にいたこと。
それは、記録とは違う。
神だった頃なら、一日の出来事をすべて記憶することができた。
けれど。
すべてを覚えていることと、大切に覚えていることは違う。
アポロンは、今日の鍋を見た。
野菜の切り方。
湯気。
美咲の声。
テーブルの上に置かれた二つの箸。
どれも、特別なものではない。
だからこそ。
記憶に残るのかもしれなかった。
食事が終わる。
美咲が食器を重ねる。
「洗うよ」
アポロンが言った。
「じゃあお願い」
二人で片付ける。
アポロンが皿を洗い、美咲が拭く。
「この組み合わせ、前にもやったね」
「そうだったな」
「いつからだろう」
「覚えていない」
「珍しい」
美咲が笑った。
アポロンも少し笑う。
覚えていない。
その言葉が、以前ほど嫌ではなくなっていた。
むしろ。
覚えていないことがあるからこそ、思い出すことができる。
そんな気がした。
夜。
二人でソファに座る。
美咲がテレビをつけた。
ニュースが終わり、次の番組が始まる。
アポロンは昨日買った本を開いた。
しばらくすると、美咲が言った。
「その本、面白い?」
「面白い」
「前はまだ分からないって言ってたのに」
「読んだから分かった」
「そっか」
アポロンはページをめくった。
物語は、もう終盤に近づいている。
残りは少ない。
少しだけ、惜しい気がした。
本を閉じる。
「どうしたの?」
「まだ終わってほしくない」
美咲がこちらを見る。
「そんなに?」
「うん」
「じゃあ、ゆっくり読めば?」
アポロンは考えた。
それは簡単なことだった。
ページを読む速度を落とせばいい。
けれど。
物語は、いつか終わる。
明日には読み終わるかもしれない。
それでも、続きを読む。
「そうする」
アポロンは本を開いた。
ページを一枚めくる。
その時。
ほんの一瞬だけ。
昔の記憶が浮かんだ。
無数の祈り。
無数の願い。
無数の人生。
すべてが最初から最後まで見えていた。
何一つ終わることに驚かなかった。
何一つ失うことを恐れなかった。
なぜなら。
すべてを知っていたから。
アポロンは本を閉じた。
「……」
「どうしたの?」
「いや」
少し間を置いてから、答える。
「物語が終わるのが、少し寂しいだけだ」
美咲は笑った。
「じゃあ、また別の本を読めばいいよ」
「そうだな」
別の本。
別の話。
別の明日。
アポロンは、もう一度本を開いた。
物語の結末は、まだ読んでいない。
だから。
今夜は、まだ終わらない。
窓の外では、電車が通り過ぎていった。
その音を聞きながら。
アポロンは、静かにページをめくった。




