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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第六十三章 隣にいる人

朝。


雨は止んでいた。


窓を開けると、濡れた道路が朝の光を反射している。


昨夜の雨が嘘のように、空は明るかった。


美咲が台所から顔を出した。


「今日は晴れそうだね」


「そうだな」


「傘、どうする?」


アポロンは玄関に置いてある折り畳み傘を見た。


「持っていく」


「また?」


「昨日、役に立ったから」


「じゃあ、私も持っていこうかな」


二人で家を出た。


駅までの道を歩く。


朝の街は忙しかった。


自転車が通る。


車が止まる。


学生が友達と話しながら歩いている。


アポロンは、その中を美咲と並んで歩いていた。


神だった頃。


人間の街を見下ろしたことは何度もあった。


けれど。


誰かと同じ速度で歩いたことはなかった。


人間たちは、それぞれ違う方向へ進んでいく。


その中で、隣にいる人間だけが同じ方向へ歩いている。


それが、少し不思議だった。


「どうしたの?」


美咲が聞いた。


「いや」


アポロンは前を向いた。


「こうして歩くのも、悪くないと思った」


「朝から変なこと言うね」


「そうかもしれない」


駅で別れる。


「じゃあ、また夜に」


「うん」


美咲は改札へ向かっていった。


アポロンも反対方向のホームへ向かう。


仕事が始まれば、いつもの一日だった。


昼過ぎ。


店の前を、一人の老人がゆっくり歩いていた。


店の看板を見ている。


健一が気づいた。


「いらっしゃいませ」


老人は少し迷ってから、店に入った。


席に座る。


メニューを開く。


「何にしましょう?」


健一が聞く。


「……いつもの」


老人はそう言った。


健一が少し考える。


「すみません。以前、来られたことがありますか?」


老人は笑った。


「いや。ここは初めてだよ」


健一も笑う。


「それなら、いつものはまだありませんね」


「そうだったか」


老人は少し恥ずかしそうに笑った。


アポロンはそのやり取りを見ていた。


健一が水を置く。


「今日はおすすめの定食がありますよ」


「じゃあ、それで」


料理を運ぶ。


老人はゆっくり食べた。


食事が終わると、


「おいしかった」


と言った。


「ありがとうございます」


老人は財布を取り出し、会計を済ませた。


店を出る前に、一度振り返る。


「また来るよ」


健一が答える。


「お待ちしてます」


老人が出ていく。


アポロンは、その背中を見送った。


また来る。


昨日、神社で聞いた言葉と同じだった。


けれど今日は、少し違って聞こえた。


神社では神に向けられた言葉だった。


ここでは、店に向けられた言葉だった。


どちらも、次の時間を約束する言葉だった。


「健一」


「ん?」


「あの人は、また来ると思うか?」


「さあ」


健一は笑った。


「来るかもしれないし、来ないかもしれない」


アポロンは黙った。


「でも、来てくれたら嬉しいだろ?」


「……そうだな」


「それで十分じゃないか」


健一は仕事に戻った。


アポロンも皿を片付ける。


夕方。


仕事が終わった。


外へ出ると、空は少し赤くなっていた。


スマートフォンを見る。


美咲から連絡が来ている。


『今日は先に帰ってるね』


アポロンは、


『分かった』


と返した。


駅へ向かう。


いつもなら、すぐに電車に乗る。


けれど今日は、少しだけ遠回りした。


昨日の公園を通る。


子どもたちはいない。


ベンチだけが残っている。


アポロンはそこに座った。


静かな時間だった。


神だった頃。


彼の周りには、いつも何かがあった。


祈り。


願い。


命令。


世界の変化。


無数の人間の声。


それなのに。


あの頃、自分は一人だった。


誰も、自分と同じ場所にはいなかった。


誰かを作ることはできた。


何でも作ることができた。


けれど、自分が作った存在なら、そのすべてを知っている。


何を考えるのか。


何を望むのか。


どう答えるのか。


最初から分かっている。


だから、それは「誰か」と呼べるものではあっても、自分にとっての「知らない誰か」ではなかった。


アポロンは空を見上げた。


人間になってから。


自分は初めて、誰かの返事を待った。


誰かが帰ってくるのを待った。


誰かが何を言うのか分からないまま、話を聞いた。


それは、以前の自分にはなかった時間だった。


「……だから、来たのか」


小さく呟く。


自分がなぜ人間になりたかったのか。


その理由は、最初から完全には分かっていなかった。


ただ、退屈だった。


何もかも知っていた。


何もかも持っていた。


それでも、何かが足りなかった。


今なら、少しだけ分かる。


足りなかったのは、世界ではなかった。


自分と同じ場所に立ってくれる誰かだった。


アポロンはベンチから立ち上がった。


スマートフォンを見る。


美咲から、もう一度メッセージが届いていた。


『夕飯、何がいい?』


アポロンは少し考えた。


以前なら、答えを知っていたかもしれない。


今は、自分で決める。


『帰ってから一緒に決めよう』


送信する。


すぐに返事が来た。


『了解』


短い返事だった。


それだけだった。


アポロンはスマートフォンをポケットにしまった。


そして、家へ向かって歩き始めた。


夕暮れの街を、一人で歩く。


けれど。


もう、完全な一人ではなかった。

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