第六十二章 約束のない日
翌朝。
アポロンが目を覚ますと、隣の部屋から物音がした。
美咲が起きているらしい。
時計を見る。
いつもと同じ時間だった。
「おはよう」
「おはよう」
美咲は台所で朝食を作っていた。
「今日は何時に帰ってくる?」
「分からない」
「そうなんだ」
「仕事が終わってから考える」
「じゃあ、私もそうする」
二人とも、今日の予定を決めなかった。
それだけだった。
けれど、アポロンは少し不思議な気持ちになった。
神だった頃。
一日の予定など、考える必要がなかった。
未来は最初からそこにあった。
何が起きるかを知っている。
誰が何をするかも知っている。
予定を立てるという行為そのものが、ほとんど意味を持たなかった。
人間になってからは、逆だった。
予定を決める。
変更する。
忘れる。
遅れる。
誰かと相談する。
そして、予定にないことが起きる。
それが普通だった。
仕事を終えた。
アポロンは店の前で少し立ち止まった。
いつもなら駅へ向かう。
今日は違った。
スマートフォンを見る。
美咲からの連絡はない。
アポロンは歩き出した。
駅とは反対方向だった。
特に目的地はない。
ただ、少し歩いてみたかった。
商店街を抜ける。
小さな公園がある。
以前来たことのある場所だった。
ベンチに座る。
子どもが二人、ボールを追いかけている。
その少し離れたところで、母親らしい女性が立っていた。
子どもが転んだ。
泣く。
母親が駆け寄る。
アポロンは立ち上がらなかった。
以前なら、すぐに助けようとしたかもしれない。
けれど、母親はもう子どもを抱き起こしている。
「大丈夫?」
「痛い……」
「ちょっと見せて」
母親が膝についた砂を払う。
子どもは泣きながら頷いた。
しばらくすると、また二人で歩き始めた。
アポロンはそれを見ていた。
誰かが助ける必要がある時。
誰かがすでに助けている時。
その違いが、以前より分かるようになっていた。
空を見上げる。
雲が少し増えている。
天気が変わる。
アポロンは知っていた。
夕方には少し雨が降る。
けれど、家へ戻る時間まではまだある。
「……もう少しだけ」
そう呟いた。
公園を出る。
商店街の小さな店で、温かい飲み物を買った。
店員から、
「ありがとうございました」
と言われる。
アポロンも、
「ありがとう」
と返した。
その言葉だけで、少し気分がよかった。
帰り道。
雨が降り始めた。
細い雨だった。
アポロンは鞄から折り畳み傘を取り出す。
昨日から入れたままだった。
傘を開く。
「持ってきてよかった」
一人で笑った。
駅を通り過ぎる人たちは、急いでいる。
傘を持っていなかった人は、店の軒先で雨宿りをしている。
アポロンはその横をゆっくり歩いた。
家に着く。
美咲はまだ帰っていなかった。
アポロンは濡れた傘を玄関に置いた。
それから、昨日買った本を手に取った。
ページを開く。
しばらく読んだ。
一時間ほど経った頃。
玄関が開いた。
「ただいま」
「おかえり」
美咲が濡れた髪を拭きながら入ってくる。
「雨、降ってきたね」
「そうだな」
「傘持ってた?」
「持っていた」
「珍しい」
「昨日から入れていた」
美咲は笑った。
「準備してたんだ」
「そういうことになるな」
美咲は鞄を置いた。
「今日は何してたの?」
「歩いていた」
「どこまで?」
「特に決めていない」
「へえ」
美咲は少し驚いた顔をした。
「じゃあ、何か見つけた?」
アポロンは少し考えた。
「雨が降った」
「それは見つけたって言うの?」
「分からない」
美咲が笑う。
「じゃあ、今日はそれでいいんじゃない?」
「そうだな」
夕食を作る。
食事をしながら、美咲が言った。
「昨日、明日何食べるか決めようって言ったのに」
「ああ」
「結局、何も決めなかったね」
「そうだったな」
「どうする?」
アポロンは冷蔵庫を見る。
「今決める?」
「ううん」
美咲は首を振った。
「食べたいものが出てきた時に決めよう」
アポロンは少し黙った。
「それでいい」
食事が終わる。
二人で食器を洗う。
明日の予定は、まだ何もない。
けれど。
それを不安には感じなかった。
決まっていないことは、失われていることではない。
まだ選べるということでもある。
アポロンはそう考えた。
そして、その考えが自分のものになっていることに気づいた。
神だった頃。
未来は、すでに決まっていた。
今は違う。
明日は、まだ何も決まっていない。
だからこそ。
朝になってから、決めればいい。
アポロンは窓の外を見た。
雨は、まだ降っている。
明日の天気も知っている。
それでも。
明日の朝、窓を開けるのが少し楽しみだった。




