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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第六十一章 言わなかったこと

朝。


美咲はいつもより少し早く起きた。


台所で水を飲んでから、冷蔵庫を開ける。


「牛乳、なくなりそう」


「昨日、買おうと思っていた」


アポロンが答えた。


「じゃあ、帰りにお願いしてもいい?」


「分かった」


「ありがとう」


それだけの約束だった。


アポロンは仕事へ向かった。


午前中は忙しかった。


注文を間違えないように気をつけながら、料理を運ぶ。


昼休みになる。


スマートフォンを見ると、美咲からメッセージが来ていた。


『今日、仕事のあと友達とご飯食べてくるね』


アポロンは画面を見た。


『分かった』


それだけ送る。


少しして、もう一度スマートフォンを見た。


何か返した方がいい気がした。


けれど、何を言えばいいのか分からない。


結局、そのままポケットにしまった。


仕事が終わる。


帰り道にスーパーへ寄った。


牛乳を買う。


それから、夕食に使えそうな野菜も少し買った。


レジを出たところで、アポロンはふと足を止めた。


以前なら。


美咲がどこにいるのか知ることができた。


誰といるのか。


何を話しているのか。


いつ帰るのか。


全部。


今も、知ろうと思えば知ることができる。


けれど。


知る必要はない。


アポロンはそのまま家へ帰った。


静かな部屋だった。


電気をつける。


買ってきた牛乳を冷蔵庫へ入れる。


夕食を一人分だけ作る。


食べ終わったあと、洗い物をする。


それからソファに座った。


昨日の本を開く。


しばらく読んでいると、スマートフォンが震えた。


美咲だった。


『今から帰るね』


アポロンは、


『分かった』


と返した。


そして、本を閉じた。


しばらくして玄関が開く。


「ただいま」


「おかえり」


美咲は少し疲れているようだった。


「楽しかった?」


「うん。久しぶりに会ったから」


「そうか」


「アポロンは?」


「本を読んでいた」


「一人で?」


「そうだ」


美咲が少し笑った。


「寂しくなかった?」


アポロンは考えた。


「少しだけ」


「そっか」


美咲は鞄を置いた。


「ごめんね」


「謝らなくていい」


「でも」


「君が友達と食事をすることは、悪いことではない」


美咲は何も言わなかった。


アポロンは続けた。


「私も、自分の時間を過ごしていた」


「うん」


「だから大丈夫だ」


美咲は小さく頷いた。


「ありがとう」


そのあと、美咲は冷蔵庫を開けた。


「牛乳買ってくれたんだ」


「頼まれたから」


「助かる」


「約束したからな」


美咲は牛乳を冷蔵庫から出した。


「約束って、ちゃんと覚えてるんだね」


「忘れない」


そう答えてから、アポロンは少し考えた。


神だった頃。


約束というものは、少し不思議だった。


未来を知っている者にとって、約束は確認に近い。


けれど、人間にとっては違う。


明日がどうなるか分からない。


それでも、


「明日もやろう」


「また会おう」


「帰ったら連絡する」


そう言う。


その言葉を信じて、時間を過ごす。


アポロンは、テーブルの上に置かれた牛乳を見た。


たった一本の牛乳。


それを買うと約束した。


そして、実際に買った。


それだけだった。


けれど。


「約束って、面白いな」


「急にどうしたの?」


「何でもない」


美咲は笑った。


「変なの」


アポロンも少し笑った。


夜が深くなる。


二人はそれぞれの時間を過ごした。


美咲はスマートフォンを見ている。


アポロンは本を読む。


同じ部屋にいても、別々のことをしている。


それでも、不思議と離れている感じはしなかった。


やがて美咲が言った。


「明日、帰りに何か食べて帰らない?」


アポロンは本から顔を上げた。


「何を?」


「まだ決めてない」


「そうか」


「その時に決めようよ」


アポロンは少し考えた。


「分かった」


明日の夕食は、まだ決まっていない。


何を食べるのかも。


どこへ行くのかも。


けれど。


その予定が、少し楽しみだった。


アポロンは本を閉じた。


明日のことを、全部決めない。


それでも。


明日は来る。


そして、その時に決めればいい。


それだけのことが、以前より自然に思えるようになっていた。

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