第六十章 変わらない朝
朝になった。
目覚ましが鳴る。
アポロンは目を開けた。
昨日と同じ時間だった。
カーテンを開ける。
昨日と同じような空だった。
「……変わらないな」
そう呟いてから、少し考えた。
変わらないことは、つまらないことなのだろうか。
神だった頃。
世界は、ほとんど変わらなかった。
もちろん、人間は生まれて、働いて、年を取り、死んでいった。
街も変わった。
国も変わった。
時代も変わった。
それでも、アポロン自身にとっては、すべてが予定されたものだった。
だから、変化している世界を見ながら、変化を待つ必要がなかった。
今は違う。
朝起きれば、今日という一日が始まる。
昨日と同じように見えても、同じになるとは限らない。
アポロンは着替えをして、台所へ向かった。
冷蔵庫を開ける。
卵がある。
牛乳もある。
パンも残っている。
「朝はこれでいいか」
パンを焼く。
卵を焼く。
簡単な朝食だった。
美咲が起きてきた。
「おはよう」
「おはよう」
「朝ご飯?」
「そうだ」
「ありがとう」
二人で食べる。
特別な話はしなかった。
昨日買った本の話もしなかった。
テレビのニュースを少し見る。
天気予報が流れる。
今日は一日晴れるらしい。
アポロンはそれを知っていた。
それでも、画面を見る。
「知っているのに見るんだね」
美咲が言った。
「……そうだな」
「変なの」
「そうかもしれない」
テレビが次のニュースへ移る。
アポロンはパンを一口食べた。
昨日と同じパンだった。
けれど、昨日とは違う味がした。
美咲と一緒に食べているからかもしれない。
それとも、ただ気分の問題なのかもしれない。
どちらでもよかった。
食事を終えると、二人で家を出た。
駅で美咲とは別れる。
「じゃあ、また夜に」
「うん」
アポロンは一人で歩いていく。
仕事をする。
昼休みに弁当を食べる。
午後も働く。
何も特別なことは起こらなかった。
仕事が終わる。
店を出る。
駅へ向かう。
いつもの道。
いつもの信号。
いつもの電車。
アポロンは電車の窓から外を見る。
昨日も見た景色だった。
けれど。
その時、向かいの席に座っていた男性が、突然立ち上がった。
電話をしている。
「はい……分かりました」
短い会話だった。
男性は電話を切ると、しばらく黙っていた。
表情はよく分からない。
アポロンは、その人のことを知ることができる。
知ろうと思えば。
何があったのか。
誰から電話が来たのか。
この後、どこへ向かうのか。
全部分かる。
けれど、見なかった。
ただ、その人が窓の外を見ているのを眺めた。
やがて電車が駅に着く。
男性は降りていった。
アポロンも降りる。
ホームを歩きながら、ふと思った。
知らなくてもいいことがある。
それは、以前とは少し違う意味を持っていた。
神だった頃は、知らないという状態が存在しなかった。
今は、知らないことを自分で選べる。
家に帰る。
美咲はまだ帰っていなかった。
アポロンは昨日買った本を手に取った。
ソファに座る。
昨日の続きから読む。
しばらくすると、物語の中の人物が思いもよらない行動をした。
「……そうなるのか」
アポロンはページをめくった。
次の展開は知らない。
最後も知らない。
それが、少し嬉しかった。
本を閉じる。
まだ途中だった。
続きは、また明日でもいい。
スマートフォンを見る。
美咲からメッセージが届いていた。
『今日は少し遅くなる』
アポロンは、
『分かった』
と返した。
それから、少し考えて、もう一行加えた。
『気をつけて帰ってきて』
送信する。
すぐには返事が来なかった。
アポロンはスマートフォンをテーブルに置いた。
以前なら、返事が来るまで気になっていたかもしれない。
けれど今日は、本を開いた。
待ちながら、自分の時間を過ごす。
それも人間の生活なのだと思った。
夜が少し深くなった頃。
玄関が開いた。
「ただいま」
「おかえり」
美咲が靴を脱ぐ。
「遅くなってごめん」
「大丈夫だ」
「待ってた?」
「少し」
美咲が笑った。
「そっか」
アポロンは本を閉じた。
「続きは明日読む」
「また?」
「まだ終わっていないからな」
「楽しみなんだね」
「……うん」
その返事は、以前より自然だった。
夜。
美咲が眠ったあと。
アポロンは一人で窓の外を見た。
街は静かだった。
人間だった頃の世界。
神だった頃の世界。
同じ世界なのに。
見え方が違う。
昔は、すべてを知っていた。
今は、知らない。
けれど。
知らないからこそ、明日の朝を迎える意味がある。
アポロンはカーテンを閉めた。
そして、明日のことを考えないまま眠った。
それは、神だった頃には一度もなかったことだった。




