第五十八章 返事を待つ
翌朝。
アポロンは、いつもより少し早く家を出た。
空は薄い雲に覆われていた。
雨が降るかどうかは、分かっている。
午後には晴れる。
そのことを、アポロンは知っていた。
けれど、傘を持っていくかどうかで少し迷った。
「……持っていこう」
玄関に置いてあった折り畳み傘を鞄に入れる。
以前なら、雨が降ると知っていれば、それだけで十分だった。
今は違う。
傘を持っていくという、小さな選択そのものが少し楽しい。
駅へ向かう途中、美咲からメッセージが届いた。
『今日は少し遅くなるかも』
アポロンは画面を見た。
『分かった』
それだけ返した。
しばらく歩いてから、もう一度スマートフォンを見る。
返事はない。
当然だった。
美咲は仕事をしている。
それでも、アポロンは何度か画面を確認した。
自分でも少しおかしいと思った。
神だった頃。
返事を待つということはなかった。
祈りは届いた瞬間に分かった。
返事をする必要があれば、すぐに返した。
待つ時間そのものが存在しなかった。
店に着くと、健一が仕込みをしていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「美咲ちゃん、今日は遅いのか?」
「少し遅くなるそうです」
「そうか」
健一は、それ以上聞かなかった。
アポロンも仕事を始めた。
昼過ぎ。
店が少し忙しくなった。
注文を聞き、料理を運ぶ。
食器を片付ける。
いつもの仕事だった。
その途中で、スマートフォンが一度だけ震えた。
アポロンは反射的に画面を見る。
美咲ではなかった。
店からの連絡だった。
「……違った」
小さく呟いた。
佐藤が横を通り過ぎる。
「誰からですか?」
「仕事の連絡だ」
「そうですか」
それだけだった。
けれど、アポロンは少し考えた。
今、自分は美咲からの返事を期待していた。
そのことを、他人に言う必要はない。
言わなくてもいい。
それも、最近覚えたことだった。
夕方。
仕事が終わる頃には、外はすっかり晴れていた。
朝の雲は消えていた。
アポロンは空を見上げた。
「やはり晴れたな」
「何か言った?」
健一が振り返る。
「いえ」
「そうか」
健一は店の看板を片付けた。
「じゃあ、お疲れさん」
「お疲れさまでした」
駅へ向かう。
スマートフォンを見る。
まだ返事はない。
アポロンは歩きながら考えた。
返事がない。
ただ、それだけだった。
何か悪いことが起きたとは限らない。
忙しいのかもしれない。
スマートフォンを見ていないのかもしれない。
誰かと話しているのかもしれない。
人間だった頃の自分なら、いくつかの可能性を考えていた。
神だった自分なら、すべてを知っていた。
今は、そのどちらでもない。
分からない。
アポロンは駅前のベンチに座った。
帰ればいい。
そう思った。
けれど、もう少しだけここにいたかった。
誰かを待っているわけではない。
ただ、少し休みたかった。
そう思っていた時。
スマートフォンが震えた。
『今終わったよ』
美咲からだった。
アポロンは画面を見たまま、少しだけ笑った。
『お疲れさま』
送信する。
すぐに返事が来た。
『今から帰るね』
その文章を見て、アポロンは立ち上がった。
駅へ向かう。
別に急ぐ必要はない。
それでも、足取りは少し軽かった。
家に帰ると、美咲はまだいなかった。
アポロンは冷蔵庫を開けた。
夕食に何を作るか考える。
昨日の残り物。
卵。
野菜。
それから、買っておいた小さなプリン。
「……これでいいか」
料理を始める。
しばらくすると、玄関の音がした。
「ただいま」
「おかえり」
美咲が靴を脱ぐ。
「今日は遅くなっちゃった」
「知っている」
「何それ」
美咲が笑う。
「連絡をもらったから」
「ああ、そうだった」
二人で食卓につく。
美咲が料理を見て、
「作ってくれたんだ」
と言った。
「待っている間に」
「待ってたの?」
アポロンは少し考えた。
「……返事を待っていた」
「そっち?」
美咲が笑う。
「帰ってくるのも待ってたんじゃない?」
アポロンは箸を止めた。
「そうかもしれない」
「じゃあ、待っててくれてありがとう」
その言葉を聞いて、アポロンは少し黙った。
神だった頃。
人間から感謝されることは、珍しくなかった。
けれど。
今の「ありがとう」は、以前とは違って聞こえた。
誰かが自分の帰りを待っていた。
自分も誰かを待っていた。
その時間が、お互いに残っている。
アポロンは、温かい料理を一口食べた。
「……待つのも、悪くないな」
美咲が顔を上げる。
「最近、それよく言うね」
「そうか?」
「うん」
アポロンは少し考えてから、笑った。
「では、別の言い方を探してみる」
「無理に探さなくてもいいよ」
「そうか」
「うん」
二人は、そのまま食事を続けた。
外では、夜の街を電車が走っている。
その行き先を、アポロンは知っている。
けれど。
明日、自分が何をするのかは。
まだ決めていなかった。




