第五十七章 届かなかった祈り
朝、アポロンはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗かった。
隣の部屋からは、何も聞こえない。
美咲もまだ眠っているらしい。
アポロンはベッドから起き上がり、カーテンを少しだけ開けた。
街には、まだ夜の名残があった。
信号だけが、規則正しく色を変えている。
赤。
青。
また赤。
神だった頃も、こういう光景を見ていた。
ただ、その時は意味が違った。
街の明かりも、人の動きも、すべて知っていた。
誰が起きるのか。
誰が眠るのか。
誰が今日、駅へ向かうのか。
誰が仕事を休むのか。
そして、誰が神に祈るのか。
アポロンは、ふと手を止めた。
祈り。
昨日、神社で聞いた言葉だった。
「また来ます」
あの老人は、そう言っていた。
その言葉が、なぜか残っている。
神だった頃。
祈りは、いつも届いていた。
無数の声が、世界のあちこちから届いた。
家族が元気でありますように。
試験に受かりますように。
仕事がうまくいきますように。
病気が治りますように。
もう一度、あの人に会えますように。
アポロンは、それらをすべて知っていた。
けれど。
その頃の自分は、祈りを「声」としてしか見ていなかった。
願いが届けば、それに応える。
必要がなければ、そのままにする。
世界の仕組みとして、それだけだった。
今になって考えると。
少し違ったのかもしれない。
アポロンは、スマートフォンを手に取った。
画面には、美咲から昨日送られてきたメッセージが残っていた。
「今日は早く帰れそう」
短い文章だった。
それだけなのに、アポロンは少し安心した。
神だった頃には、必要のなかった感覚だった。
誰かが帰ってくる。
そのことを知っているだけで、安心する。
アポロンはスマートフォンを置いた。
「……祈りも、そういうものだったのかもしれない」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
願いを叶えてほしい。
それだけではない。
誰かに届いてほしい。
自分がここにいることを、知ってほしい。
そういう願いもあったのかもしれない。
神だった自分は、それを知らなかった。
知っていたのに。
分かっていなかった。
アポロンは、少しだけ笑った。
「知っている」と「分かる」は、やはり違うらしい。
その日の昼。
仕事へ向かう途中、駅前で一人の女性が立ち止まっていた。
手には、小さな封筒がある。
女性は何度かスマートフォンを確認してから、駅の中へ入っていった。
アポロンは、特に気に留めなかった。
その人が何を待っているのか。
誰に連絡を取ろうとしているのか。
神なら、すぐに分かった。
今なら、分からない。
そして、分からないまま通り過ぎることができる。
それが、以前より嫌ではなくなっていた。
店に着くと、健一が開店準備をしていた。
「おはよう、アポロン」
「おはようございます」
「今日は早いな」
「少し早く起きました」
「珍しいな」
健一は笑いながら、椅子を並べた。
「じゃあ、これ頼めるか?」
「はい」
アポロンも椅子を運ぶ。
いつもの仕事だった。
特別なことは何もない。
昼になると、店は忙しくなった。
注文が続き、料理が運ばれ、食器が戻ってくる。
佐藤が一度、アポロンの横を通った。
「それ、こっちに置いた方がいいですよ」
「そうか」
「その方が取りやすいので」
「分かった」
以前なら、こんな小さな指摘さえ不思議だった。
自分より若い人間から教えられる。
けれど、今はもう慣れている。
「ありがとう」
「いえ」
佐藤はそれだけ言って、別の仕事へ戻っていった。
午後三時。
少し店が静かになった。
健一が水を飲みながら言った。
「そういえば、昨日神社に行ったって言ってたな」
「はい」
「何かお願いしたのか?」
アポロンは少し考えた。
「していません」
「神様にお願いするの、苦手か?」
「……どうでしょう」
健一は笑った。
「俺はたまにするけどな」
「何を?」
「家族が元気でいることとか。仕事がうまくいくこととか」
健一は少し考えてから続けた。
「まあ、願ったからって必ずどうにかなるわけじゃないけどな」
「それでも?」
「それでも、かな」
健一は水を一口飲んだ。
「言っておきたい時って、あるだろ」
アポロンは黙った。
その言葉を聞いた時。
胸の奥に、ほんの少しだけ何かが触れた。
「言っておきたい時」。
神だった頃。
そんなことを考えたことはなかった。
祈りは、届く。
だから、届くかどうかを心配する必要はなかった。
けれど人間にとっては。
届くかどうか分からなくても、言いたいことがある。
アポロンは窓の外を見た。
駅へ向かう人。
買い物袋を持った人。
自転車に乗る人。
誰も、神を見ていない。
それでいい。
今は、それが少しだけ嬉しかった。
夜。
美咲と夕食を食べながら、アポロンは昼間のことを話した。
「健一さんが、神様にお願いすることがあると言っていました」
「へえ。何をお願いするの?」
「家族が元気でいることとか」
「普通だね」
「普通なのか?」
「うん。そういうの、よくあると思う」
美咲は箸を動かしながら言った。
「私も、たまにお願いするよ」
「何を?」
美咲は少し考えた。
「……秘密」
アポロンは美咲を見る。
「教えてくれないのか」
「うん」
「そうか」
少しだけ沈黙があった。
けれど、美咲は笑っていた。
「いつか話すかもしれないけどね」
「いつか」
その言葉を聞いて、アポロンも笑った。
いつか。
それは、神だった頃には必要のない言葉だった。
未来を知っていたから。
けれど今は。
その言葉だけで、少し先の時間が楽しみになる。
アポロンは箸を置いた。
「では、待つことにする」
「何を?」
「いつか話してくれることを」
美咲は少し笑った。
「そんなに期待しないでよ」
「分からない」
「何が?」
「話してくれるかどうかは、まだ分からない」
美咲は一瞬だけ黙ってから、
「そうだね」
と言った。
窓の外では、夜の街が静かに光っていた。
神だった頃には、すべての祈りが届いていた。
今は、一つの言葉さえ届くかどうか分からない。
それでも。
分からないまま待つ時間を、アポロンは嫌いではなくなっていた。




