第五十六章 待っている人
朝。
アポロンはいつものように店へ向かった。
駅の前を歩いていると。
小さな掲示板の前に人が集まっていた。
近づいてみる。
紙が貼られている。
地域の神社で行われる行事の案内だった。
「神様に会えるといいですね」
誰かが言った。
隣にいた女性が笑う。
「本当に。いつか一度でいいから、お姿を見てみたいわ」
アポロンは足を止めた。
神様に会いたい。
その言葉が。
妙に残った。
店に着く。
健一が仕込みをしていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「どうした?」
「神様に会いたい人がいる」
健一が手を止める。
「急にどうした?」
「今朝、そう言っていた」
「まあ、いるかどうかは分からないけどな」
「もし会えたら、何を言うと思う?」
健一は少し考えた。
「人によるだろ」
「そうか」
「家族のことを頼む人もいるだろうし、自分のことを頼む人もいる。何も頼まずに、ただ会ってみたいって人もいるんじゃないか」
「会ってみたいだけ?」
「そういう人もいるだろ」
アポロンは黙った。
ただ会いたい。
その言葉を考える。
神だった頃。
自分に会いたいと思っている人がいることは知っていた。
けれど。
その気持ちを考えたことはなかった。
仕事が終わる。
帰り道。
朝の神社へ向かう。
鳥居の前に、一人の老人が立っていた。
手には小さな花がある。
老人はゆっくりと中へ入る。
アポロンは少し離れて歩いた。
老人は社の前に花を置いた。
そして。
静かに手を合わせた。
長い時間ではない。
数十秒ほど。
老人は頭を下げる。
「また来ます」
小さく呟いた。
アポロンはその言葉を聞いた。
また来る。
それは約束のようにも聞こえた。
老人が帰っていく。
アポロンは社の前に立った。
昔なら。
ここで祈られていることを。
すべて知っていた。
誰が何を願い。
いつまで願い。
何を諦め。
何を待っているのか。
全部。
今は。
知らない。
だから。
そのまま立っていた。
しばらくして。
アポロンも小さく頭を下げた。
何も願わない。
ただ。
今日ここに来たことだけを。
自分の中に残した。
帰宅すると。
美咲が夕食を作っていた。
「今日はどこか寄ってきました?」
「神社」
「昨日も行ってましたね」
「うん」
「神様、気に入ったんですか?」
アポロンは少し考える。
「神様に会いたい人がいた」
「へえ」
「それを聞いていたら、少し考えたくなった」
美咲は鍋をかき混ぜながら言う。
「いつか会えるといいですね」
アポロンはその言葉を聞いた。
「……そうだな」
美咲はそれ以上聞かなかった。
夕食を食べる。
いつものように。
いつもの部屋で。
けれど。
アポロンの中には。
朝聞いた言葉が残っていた。
神様に会いたい。
その人が待っている神は。
今。
同じ街のどこかで。
普通の人間として暮らしている。
そのことを。
誰も知らない。
アポロン自身も。
以前より少しだけ。
その事実を不思議に思うようになっていた。




