第五十五章 祈りの声
朝。
アポロンはテレビを見ていた。
ニュースが終わり、次の番組が始まる。
画面には小さな神社が映っていた。
季節の行事についての短い紹介だった。
「ここでは、毎年多くの人が神様に祈りを捧げています」
アポロンは画面を見た。
神様。
その言葉を聞く。
昔なら。
自分のことだと分かっていた。
今は。
少し遠い言葉に聞こえた。
「神様って、いると思います?」
美咲が聞いた。
「いると思う」
「即答ですね」
「いるから」
美咲は少し笑った。
「じゃあ、会ったことあります?」
アポロンは黙った。
「……ある」
「え?」
「いや」
少し間を置く。
「分からない」
美咲は不思議そうな顔をした。
「変なの」
「そうかもしれない」
テレビでは、神社に来た人たちの姿が映っている。
小さな女の子が手を合わせている。
その隣には母親がいる。
別の場所では、年配の男性が静かに頭を下げている。
アポロンは画面を見続けた。
祈っている。
何を願っているのか。
分かる。
画面に映っている人たちのことも。
ある程度なら分かる。
家族の健康。
仕事。
試験。
病気。
大切な人のこと。
昔のアポロンなら。
すべての願いを知っていた。
叶えることもできた。
けれど。
それを見ても。
何も感じなかった。
今は違う。
画面の中の人を見ていると。
少しだけ胸が重くなる。
「何をお願いしてるんでしょうね」
美咲が言った。
「人によって違う」
「そうでしょうね」
「でも」
アポロンは少し考えた。
「誰かに届いてほしいと思っているのかもしれない」
美咲がアポロンを見る。
「誰かに?」
「うん」
「神様に?」
「……そうかもしれない」
その日の帰り。
アポロンは駅の近くにある小さな神社の前を通った。
今まで何度も見ていた。
けれど。
今日は足を止めた。
鳥居の向こうに人がいる。
若い女性が一人。
手を合わせている。
アポロンは少し離れた場所で立っていた。
何を願っているのか。
知ろうと思えば知ることができる。
それでも。
知らないままでいた。
女性は頭を下げる。
そして帰っていった。
アポロンは神社を見る。
「……」
神だった頃。
人間は毎日のように自分に祈っていた。
その声を。
すべて知っていた。
けれど。
誰かの隣に立って。
その人が何を願うのかを知らずに。
ただ見送ることはなかった。
アポロンは静かに歩き出した。
その夜。
家に帰ると、美咲がいた。
「今日は遅かったですね」
「神社に寄っていた」
「神社?」
「うん」
「何かお願いしたんですか?」
アポロンは少し考えた。
「しなかった」
「どうして?」
「何をお願いすればいいのか、分からなかった」
美咲は笑った。
「じゃあ、まだお願いすることがないんですね」
「そうかもしれない」
アポロンは窓の外を見る。
昔は。
願いを受け取る側だった。
今は。
願う側になれる。
けれど。
まだ何を願えばいいのか分からない。
それでも。
いつか。
自分にも願いたいことができるのかもしれない。
そう思った。




