第五十一章 髪を切る
朝。
アポロンは鏡の前に立っていた。
少し伸びた髪を見る。
「……長くなったな」
美咲が横から覗く。
「そうですね」
「切ったほうがいい?」
「私はいいと思いますよ」
「どこで?」
「美容院か床屋ですね」
「違いは?」
美咲は少し考えた。
「説明すると長くなります」
「そうか」
アポロンはスマートフォンを見る。
近くの店を探す。
いくつか候補が出てきた。
「どこがいい?」
「自分で決めてみたら?」
「分かった」
アポロンは一つ選んだ。
店に入る。
「いらっしゃいませ」
店員が笑顔で迎えてくれた。
席に案内される。
「今日はどうしますか?」
アポロンは黙った。
「……髪を切ります」
「はい」
「どのくらい?」
「どのくらい切りたいですか?」
アポロンは鏡を見る。
自分の髪を見る。
そして。
「任せます」
店員が少し笑った。
「分かりました」
髪を濡らす。
鋏の音がする。
鏡の中で。
少しずつ自分の姿が変わっていく。
アポロンはそれを見ていた。
神だった頃。
姿を変えることに意味はなかった。
望めば。
どんな姿にもなれた。
今は違う。
髪を切るだけでも。
時間がかかる。
切った髪は。
元には戻らない。
「終わりました」
鏡を見る。
以前より短くなっている。
「どうですか?」
アポロンはしばらく自分を見る。
「……分からない」
「正直ですね」
店員が笑った。
アポロンも少し笑う。
「でも」
「はい?」
「嫌ではないです」
「それならよかったです」
店を出る。
外の風が首に当たる。
少し涼しい。
「こんなに違うのか」
歩きながら。
何度か髪に触れる。
家に帰ると。
美咲が玄関まで来た。
「おかえりなさい」
「ただいま」
美咲がアポロンを見る。
「髪、切ったんですね」
「うん」
「似合ってますよ」
アポロンは黙った。
「……似合う?」
「はい」
「どうして?」
「前よりすっきりしてます」
「そういうものか」
「そういうものです」
アポロンは鏡を見る。
自分では。
昨日との違いがまだよく分からない。
けれど。
美咲がそう言うなら。
悪くないと思った。
夕方。
仕事に行く。
健一がアポロンを見る。
「お、髪切ったか」
「分かる?」
「分かるよ」
「どう?」
「いいんじゃないか」
「美咲もそう言っていた」
「じゃあ、いいじゃないか」
健一はそう言って仕事に戻った。
それだけだった。
アポロンも仕事を始める。
髪を切った。
誰かに気づいてもらった。
それだけの一日。
けれど。
自分の姿を少し変えて。
誰かの反応を待つ。
その反応を聞いて。
少し嬉しくなる。
そんなことも。
人間の生活の一部だった。
夜。
風呂上がりに鏡を見る。
短くなった髪に触れる。
「明日は、どう見えるだろう」
そう呟いて。
アポロンは鏡から離れた。




