第四十七章 小さな痛み
仕事の帰り。
アポロンはスーパーに寄った。
牛乳。
卵。
パン。
それから、いくつかの野菜。
買い物袋を持って歩く。
店を出たところで。
袋の持ち手が少しずれた。
アポロンは持ち直そうとした。
その時。
指が、袋の端にある硬い部分に当たった。
「……っ」
小さな痛みが走った。
アポロンは手を止めた。
指を見る。
少し赤くなっている。
「……」
たいした傷ではない。
血も出ていない。
それでも。
痛い。
アポロンは指を握ったり、開いたりした。
まだ少し痛む。
神だった頃。
痛みというものは、知識として理解していた。
身体が損傷した時に生じる信号。
危険を知らせる反応。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど。
実際に痛むと。
そんな簡単な説明では済まない。
気になる。
触りたくない。
動かすと少し痛い。
たったそれだけなのに。
その指に意識が集まる。
帰宅する。
「おかえりなさい」
美咲が出てくる。
「ただいま」
「どうしました?」
「指を少しぶつけた」
「見せてください」
アポロンが手を出す。
美咲が指を見る。
「赤くなってますね」
「少し痛い」
「冷やしましょうか」
「必要?」
「少しだけでも」
美咲は冷たい布を持ってきた。
「これ、当ててください」
アポロンは指に当てる。
冷たい。
そして。
少し気持ちいい。
「……なるほど」
「何ですか?」
「痛い時には、冷やすと少し楽になる」
「そうですね」
しばらく二人で座っていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
美咲は少し笑った。
「今日はその言葉、信用していいですか?」
アポロンも笑った。
「今回は本当に大丈夫」
指の痛みは少しずつ消えていった。
夕食を食べる。
箸を持つ。
少しだけ指が気になる。
けれど。
普通に食べられる。
夜。
アポロンは指を見る。
もうほとんど痛くない。
傷も小さい。
明日には忘れているだろう。
それでも。
今日一日、この小さな痛みは確かに存在した。
「痛みは……不便だな」
美咲が聞く。
「嫌ですか?」
「嫌だ」
「でしょうね」
「でも」
アポロンは少し考えた。
「自分の身体が、自分に何かを教えているような気がする」
「何を?」
「ここに気をつけろ、と」
美咲は頷いた。
「それなら、悪いだけでもないですね」
アポロンは自分の指を見る。
神だった頃。
世界のことを知っていた。
身体のことも。
人間のことも。
けれど。
知っていることと。
実際に痛むことは違った。
今日。
ほんの小さな痛みを知った。
そして。
痛みが消えていくことも知った。
アポロンは布団に入った。
「明日は、痛くないといいな」
そう思った。
未来を知っているはずの神が。
明日の自分の指の状態を。
少しだけ楽しみにしている。
それが。
なぜか可笑しかった。




