第四十六章 見つからないもの
朝。
出かける準備をしていたアポロンは、財布を探していた。
机の上。
ポケット。
鞄の中。
ない。
「……」
もう一度、机の上を見る。
ない。
昨日使った場所を思い出す。
仕事から帰って。
玄関で鍵を出した。
そのあと、財布を置いた。
たぶん。
けれど。
そこにもない。
「どうしました?」
美咲が聞いた。
「財布がない」
「え?」
美咲も一緒に探し始めた。
机の下。
ソファの隙間。
鞄の中。
服のポケット。
ない。
アポロンは立ったまま考えていた。
「最後に使ったのは?」
「昨日、コンビニで使った」
「その後は?」
「家に帰った」
「じゃあ、家のどこかですね」
「そう思う」
けれど。
見つからない。
アポロンは少し焦っていた。
神だった頃。
探す必要などなかった。
見たいと思えば、どこに何があるか分かった。
だが。
今は違う。
自分の財布が。
どこにあるのか。
分からない。
「……」
スマートフォンを見る。
位置情報を確認する。
もちろん、財布にはそんな機能はない。
「困ったな」
美咲が言う。
「昨日の服、確認してみました?」
「確認した」
「鞄は?」
「何度も見た」
「じゃあ……」
二人でしばらく黙った。
その時。
美咲が冷蔵庫を開けた。
「……」
「どうした?」
「これ」
冷蔵庫の上に、財布が置かれていた。
「……」
アポロンは財布を見る。
「なぜ、そこに?」
「知りませんよ」
「私は置いた覚えがない」
「昨日、買い物した後じゃないですか?」
「たぶん」
財布を手に取る。
いつもの重さ。
いつもの感触。
「見つかった」
アポロンは息を吐いた。
美咲が笑う。
「よかったですね」
「うん」
それだけのことだった。
財布は戻ってきた。
何も失われていない。
けれど。
アポロンは少し考えた。
「見つからない時間」というものがある。
物が消えたわけではない。
ただ。
自分がどこにあるか知らない。
それだけで。
人は不安になる。
「知らないというのは……」
アポロンは財布を握った。
「こういうことなのか」
美咲が振り返る。
「何がですか?」
「何が起きているか分からない」
「まあ、そういうこともありますね」
「神だった頃には、なかった」
「そうなんですか?」
「ない」
「じゃあ、今は人間ですね」
美咲が笑う。
アポロンも少し笑った。
仕事に行く時間になる。
玄関で靴を履く。
財布をポケットに入れる。
今度は、ちゃんと確認した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
外に出る。
駅まで歩きながら、アポロンは財布に触れた。
そこにある。
分かっている。
それだけで少し安心した。
人間は。
持っているものさえ。
時々、失ったと思う。
そして。
見つかった時に。
少し嬉しくなる。
そんな小さな感情も。
以前の自分には必要なかった。
今は。
その小ささが。
少し面白かった。




