第四十五章 言わなくてもいいこと
朝。
アポロンは目を覚ました。
いつものように時計を見る。
まだ少し早い。
隣の部屋から物音がする。
美咲も起きているらしい。
アポロンはベッドから出た。
台所へ行く。
「おはようございます」
「おはよう」
美咲がコーヒーを入れていた。
「今日は早いですね」
「目が覚めた」
「眠そうですけど」
「少しだけ」
アポロンは椅子に座った。
美咲がコーヒーを二つ置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
しばらく二人で黙っていた。
朝のテレビから、ニュースの声が聞こえる。
天気。
交通情報。
今日の予定。
いつもの朝だった。
その時。
アポロンのスマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
画面を見る。
一瞬。
表情が変わった。
美咲が気づく。
「電話ですか?」
「うん」
「出ないんですか?」
アポロンは少し考えた。
そして。
「あとでいい」
スマートフォンを伏せた。
電話は切れた。
美咲は何も聞かなかった。
アポロンも何も言わなかった。
仕事へ行く。
けれど。
その電話のことが、ずっと頭に残っていた。
昼休み。
スマートフォンを見る。
また着信がある。
同じ番号。
アポロンは画面を見つめる。
本当なら。
何も隠す必要はない。
電話があった。
それだけだ。
けれど。
なぜか美咲には言いたくなかった。
理由は分からない。
「……」
仕事が終わる。
帰宅する。
美咲が聞く。
「朝の電話、誰だったんですか?」
アポロンは少し黙った。
「知らない番号だった」
「そうなんですね」
「うん」
それ以上、言わなかった。
美咲も聞かなかった。
夕食を食べる。
テレビを見る。
普通の時間が過ぎていく。
夜。
アポロンは一人になった。
スマートフォンを見る。
着信履歴。
同じ番号が三回。
「……」
電話をかけ直す。
しばらく呼び出し音が鳴る。
誰も出ない。
アポロンは電話を切った。
そして。
スマートフォンを机に置いた。
その時。
自分でも少し驚いた。
電話の内容より。
「美咲に言わなかった」ことのほうが気になっていた。
なぜ言わなかったのか。
説明する必要がなかったから。
それだけかもしれない。
けれど。
それだけではない気もする。
以前なら。
知っていることは知っている。
知らないことは知らない。
隠すという発想そのものがなかった。
神にとって。
秘密は存在しにくい。
すべてを見ることができるからだ。
けれど。
人間は違う。
自分の中にだけ置いておくことができる。
誰にも言わない。
誰かに言う。
言う必要がないから言わない。
言いたくないから言わない。
それも。
自分で決められる。
翌朝。
美咲が言った。
「昨日の電話、どうでした?」
「かけ直したけど、出なかった」
「そうですか」
「うん」
「何だったんでしょうね」
「分からない」
美咲はそれ以上聞かなかった。
アポロンも、それ以上話さなかった。
しばらくして。
美咲が言った。
「話したくないことなら、無理に話さなくてもいいですよ」
アポロンは顔を上げた。
「……そうなのか?」
「はい」
「聞かなくても?」
「聞かないほうがいいこともありますから」
アポロンは少し考えた。
そして。
「ありがとう」
と言った。
その言葉を口にした時。
胸の中に、少しだけ安心するような感覚があった。
何でも話さなくていい。
何でも知らなくていい。
相手にも、自分にも。
言わないことを選ぶ余地がある。
それは。
人間になってから初めて知った、小さな自由だった。




