第四十一章 ありがとうの理由
その日の昼。
店はいつもより少し混んでいた。
アポロンは料理を運んでいた。
一人の女性客が席を立った時、椅子の横に小さな財布が落ちた。
アポロンはそれに気づいた。
「すみません」
声をかける。
女性が振り返る。
「これ、落としました」
「あっ……」
女性は財布を受け取った。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして」
女性は何度も頭を下げてから店を出ていった。
アポロンはその背中を見た。
「……」
それだけだった。
財布を拾った。
渡した。
持ち主が受け取った。
何も難しいことはない。
仕事に戻る。
しばらくして、健一が言った。
「よかったな」
「何が?」
「財布」
「落とした人に返しただけです」
「それでも、本人は助かっただろ」
「そうかもしれません」
午後。
店が少し落ち着いた頃。
先ほどの女性が戻ってきた。
手には小さな紙袋を持っている。
「これ、よかったら」
「?」
女性は紙袋を差し出した。
「さっきのお礼です」
アポロンは受け取らなかった。
「必要ありません」
女性は少し困った顔をした。
「でも……」
「財布を返しただけです」
「それでも助かったので」
「お礼を受け取る必要はないと思います」
女性は少し考えた。
そして。
「じゃあ、気持ちだけでも受け取ってください」
そう言った。
アポロンは黙った。
「気持ち……」
「はい」
結局、紙袋を受け取った。
女性は笑って帰っていった。
中には小さなお菓子が入っていた。
アポロンはそれを見た。
「……」
健一が笑う。
「よかったじゃないか」
「私は何も求めていません」
「そうだろうな」
「なのに、もらいました」
「人間って、そういうものだよ」
アポロンは考えた。
神だった頃。
何かをすれば、何かを求められた。
祈り。
願い。
契約。
取引。
世界を守る。
その代わりに信仰を受ける。
何かを与えることには、理由があった。
けれど。
今は違う。
財布を返した。
それだけ。
相手は助かった。
だから「ありがとう」と言った。
そして。
ありがとうを形にした。
それだけだった。
仕事が終わる。
帰宅すると、美咲がいた。
「それ、何ですか?」
「今日、もらった」
「誰から?」
アポロンは今日のことを話した。
美咲は紙袋を覗く。
「お菓子ですね」
「そう」
「よかったですね」
「私は何もしていない」
「財布を返したじゃないですか」
「それだけだ」
「それが助かったんですよ」
アポロンは黙った。
美咲は袋から一つ取り出した。
「食べます?」
「いいのか?」
「もらったものですから」
二人で食べる。
甘かった。
アポロンは少し考えた。
「ありがとう」
美咲が笑う。
「どういたしまして」
アポロンはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
今日。
誰かに「ありがとう」と言われた。
そして。
自分も「ありがとう」と言った。
そこには。
何かを返さなければならないという決まりはなかった。
ただ。
助かったから、ありがとう。
嬉しかったから、ありがとう。
一緒に食べたから、ありがとう。
それだけでよかった。
夜。
アポロンは窓の外を見た。
人間の世界では。
小さな行動が。
小さな言葉になり。
その言葉が。
また別の誰かに届いていく。
世界を動かすほど大きな力ではない。
けれど。
それでも。
人間は、それで一日を続けている。
アポロンは静かに思った。
「……これも、人間の世界か」
そして。
悪くないと思った。




