第四十二章 断られたこと
その日は、仕事が終わるのが少し早かった。
店を出ると、まだ空が明るい。
アポロンは駅へ向かう途中で、ふと思った。
今日は時間がある。
そのまま帰るのも悪くない。
けれど。
少し寄り道をしたくなった。
駅の近くに、小さなパン屋がある。
以前、美咲が話していた店だった。
「ここのパン、好きなんです」
そう言っていた。
アポロンは店に入った。
いくつかのパンを見る。
美咲が好きだと言っていたものを見つけた。
「これにしよう」
一つ買う。
そして、もう一つ自分の分も買った。
帰宅すると、美咲はまだいなかった。
アポロンはテーブルの上にパンを置いた。
しばらくして。
玄関のドアが開く。
「ただいま」
「おかえり」
美咲が部屋に入ってくる。
「今日は早かったんですね」
「仕事が早く終わった」
「そうなんですか」
「これ」
アポロンはパンを見せた。
「買ってきた」
「わあ」
美咲は少し笑った。
「ありがとうございます」
「一緒に食べよう」
「……」
美咲は少し困った顔をした。
「ごめんなさい」
「?」
「今日はちょっと疲れていて……」
「食べたくない?」
「パンは嬉しいです」
「では?」
「今日は一人でゆっくりしたいです」
アポロンは黙った。
「分かった」
それだけ言った。
美咲は申し訳なさそうにする。
「本当にごめんなさい」
「謝る必要はない」
「でも……」
「君が食べたくないなら、無理に食べる必要はない」
美咲は少し笑った。
「ありがとうございます」
アポロンはパンを一つ、自分の前に置いた。
もう一つは袋のままにした。
夕食は別々だった。
美咲は自分の部屋で過ごした。
アポロンも一人で食事をした。
しばらくして。
少しだけ、寂しいと思った。
パンを買った。
一緒に食べたいと思った。
でも。
美咲は断った。
それだけだった。
神だった頃なら。
相手が何を望むかを知ることができた。
相手が断る前に、必要なものを用意することもできた。
けれど。
人間になった今は。
相手の気持ちを完全には知らない。
そして。
知っていたとしても。
その気持ちを変えることはできない。
「……断られるというのは、こういうことか」
アポロンは呟いた。
しばらくして。
美咲が部屋から出てきた。
「もう寝ます?」
「まだ少し起きています」
「今日は本当にごめんなさい」
「だから、謝らなくていい」
「怒ってません?」
「怒ってはいない」
少し間を置く。
「ただ、少し残念だった」
美咲は黙った。
「一緒に食べたかった」
「……そうだったんですね」
「うん」
「明日は一緒に食べましょう」
アポロンは少し考えた。
「明日でなくてもいい」
「え?」
「君が食べたいと思った時でいい」
美咲は少し驚いた顔をした。
それから。
「はい」
と笑った。
部屋に戻る前に、美咲が言った。
「パン、明日食べますね」
「分かった」
ドアが閉まる。
アポロンはテーブルの上に残ったパンを見る。
今日。
自分は誰かを誘った。
断られた。
それでも。
関係が壊れたわけではない。
嫌われたわけでもない。
ただ。
相手には相手の都合と気持ちがあった。
そして。
自分には自分の気持ちがあった。
どちらも、そのままでいい。
アポロンは袋を冷蔵庫に入れた。
「……人間は、思ったより自由だな」
誰かを大切にすることと。
その人の選択を尊重すること。
それは。
同じことなのかもしれなかった。




