第四十章 借りたもの
朝。
アポロンは出かける準備をしていた。
財布を確認する。
スマートフォン。
鍵。
ボールペン。
いつものものが入っている。
その時。
美咲が声をかけた。
「アポロンさん」
「何?」
「そのペン、少し借りてもいいですか?」
アポロンは黒いボールペンを見た。
美咲からもらったものだった。
「いいですよ」
「ありがとうございます」
美咲はペンを受け取った。
「今日、仕事で使うんです」
「分かった」
アポロンは家を出た。
仕事をしている間。
特に何も考えなかった。
昼休み。
ふと、ポケットに手を入れる。
ペンがない。
「ああ」
美咲に貸したことを思い出した。
それだけだった。
仕事が終わる。
帰宅すると、美咲がペンを持っていた。
「これ、ありがとうございました」
「うん」
美咲はペンを返した。
アポロンは受け取る。
けれど。
少しだけ違和感があった。
「どうしました?」
「いや」
アポロンはペンを見る。
「人に物を貸すのは、不思議だな」
「そうですか?」
「自分の手元から離れる」
「はい」
「その間、自分では使えない」
「そうですね」
「それでも、返ってくると信じる」
美咲は少し考えた。
「信頼しているからじゃないですか?」
「信頼」
「はい」
アポロンはペンを握った。
神だった頃。
世界に存在するものは、すべて自分の手の中にあった。
何かを失うこともない。
誰かに預ける必要もない。
何かを借りる必要もない。
けれど。
人間は違う。
自分の物を誰かに渡す。
そして。
戻ってくるまで待つ。
「もし返ってこなかったら?」
アポロンが聞く。
「それは困りますね」
「怒る?」
「たぶん」
「なぜ?」
「大事な物だったら、悲しいと思います」
「物そのものが?」
「物もそうですけど」
美咲は少し笑った。
「自分の気持ちを雑に扱われたように感じるかもしれません」
アポロンは黙った。
物を返す。
それだけの行為にも、意味がある。
約束と似ている。
渡した人は、相手を信じる。
借りた人は、その信頼を受け取る。
だから。
返すという行為は、ただ物を戻すことではない。
「ありがとう」
アポロンが言った。
「何がですか?」
「返してくれて」
美咲は少し驚いた。
「普通ですよ」
「それでも」
アポロンはペンを見た。
「大事なものだから」
「私があげたペンですもんね」
「そうだ」
美咲は笑った。
「ちゃんと使いますよ」
「うん」
その夜。
アポロンはペンを机の上に置いた。
以前は。
このペンを見ても、ただの道具だと思っていた。
今は違う。
美咲からもらったもの。
自分が仕事で使ったもの。
一度、彼女に貸したもの。
そして、返ってきたもの。
同じペンなのに。
少しずつ意味が増えている。
アポロンはそれを見ながら思った。
人間は。
物を所有するだけではない。
誰かに渡したり。
借りたり。
返したり。
その間に、関係まで作っていく。
「……面白いな」
アポロンはペンをしまった。
明日も。
たぶん、これを使う。
それだけのことが。
少し楽しみだった。




