第三十六章 遅れた朝
朝。
アポロンは目を覚ました。
いつもと同じ時間だった。
カーテンの隙間から、朝の光が入っている。
時計を見る。
「……少し遅いな」
いつもなら、もう起きている時間だった。
アポロンはベッドから起き上がった。
顔を洗う。
服を着る。
スマートフォンを見る。
そこで気づいた。
アラームが鳴っていない。
「……?」
画面を確認する。
設定したはずのアラームが、なぜか停止されていた。
アポロンは少し考えた。
昨夜、スマートフォンを触っている時に間違えて止めたらしい。
時間を見る。
仕事に間に合うためには、すぐに出なければならない。
「まずいな」
急いで靴を履く。
「アポロンさん?」
美咲が台所から顔を出した。
「今日は少し遅いですよ」
「アラームを止めていたらしい」
「え?」
「自分で止めたようだ」
美咲は少し笑った。
「じゃあ、急いだほうがいいですね」
「そうする」
玄関を出る。
駅まで歩く。
いつもなら見ている店も、今日は見ない。
信号が赤になる。
アポロンは立ち止まった。
青になるまで待つ。
「……」
以前なら、待つ必要はなかった。
時間を止めることもできた。
距離をなくすこともできた。
目的地に一瞬で移動することもできる。
けれど。
今は人間だ。
少なくとも、そういう生活をしている。
信号が青になる。
アポロンは歩き出した。
駅に着く。
電車のドアが閉まるところだった。
「……」
間に合わなかった。
ホームに立ったまま、電車を見送る。
次の電車まで、数分。
「遅れた……」
初めてだった。
仕事に遅れるかもしれない。
そう思うと、少し落ち着かない。
スマートフォンを取り出す。
健一に連絡する。
『すみません。少し遅れるかもしれません』
すぐに返信が来た。
『了解。気をつけて来て』
アポロンは画面を見る。
怒られなかった。
けれど、安心した。
次の電車に乗る。
店に着いた時には、予定より少し遅れていた。
「すみません」
店に入るなり、アポロンは頭を下げた。
健一は厨房から顔を出した。
「おう。大丈夫か?」
「はい」
「ならいい」
「遅刻しました」
「五分だろ?」
「五分でも、予定より遅れました」
健一は少し笑った。
「そういう日もある」
「そういう日……」
「人間なんだから、毎日同じようにはいかないよ」
アポロンは黙った。
人間だから。
その言葉が、妙に残った。
仕事を始める。
皿を運ぶ。
注文を取る。
いつもと同じ仕事だった。
けれど、今日は時間を気にしてしまう。
昼休み。
アポロンは水を飲みながら時計を見る。
「遅れる」ということは、ただ時間が後ろにずれることではない。
誰かが待っている。
予定が変わる。
自分の気持ちも少し変わる。
そして。
遅れた時間は、元には戻らない。
神だった頃。
時間は世界の一部だった。
人間になった今。
時間は、自分の生活そのものだった。
仕事が終わる。
帰り道。
美咲からメッセージが届く。
『今日は遅かったですね』
『朝、寝坊した』
『珍しいですね』
『自分でもそう思う』
少し間を置いて、美咲から返事が来た。
『でも、ちゃんと間に合ってよかったです』
アポロンはその文章を見た。
そして返信する。
『少し遅れた』
『そうでしたね』
『それでも、仕事は終わった』
『はい』
アポロンは歩きながら考えた。
予定通りに進まない。
少し遅れる。
少し待つ。
少し困る。
それでも、一日は終わる。
そして明日は来る。
「……人間の時間は、面白いな」
そう呟いた。
今度は、時間を支配するのではなく。
時間の中を歩いている。
そのことが、少しだけ新鮮だった。




