第三十七章 恥ずかしいということ
その日は、昼過ぎから忙しかった。
店の中には、何人もの客がいた。
注文が続く。
料理を運ぶ。
皿を下げる。
アポロンも、いつもより忙しく動いていた。
「アポロン、これ頼む」
健一が料理を渡す。
「分かりました」
アポロンは皿を持って、客のところへ向かった。
そして。
足元に置かれていた小さな荷物に気づかなかった。
「……っ」
足が引っかかった。
身体が前に傾く。
皿が大きく揺れた。
幸い、料理はこぼれなかった。
しかし。
アポロンはその場で固まった。
客がこちらを見る。
店の中にいた別の客も見る。
健一も見る。
「大丈夫か?」
「……はい」
アポロンは姿勢を戻した。
皿をテーブルに置く。
「お待たせしました」
客は笑った。
「危なかったですね」
「申し訳ありません」
「料理が無事なら大丈夫ですよ」
そう言って、客は料理を受け取った。
何も起きなかった。
怪我もない。
料理もこぼれていない。
仕事にも大きな影響はない。
それなのに。
アポロンの顔は少し熱くなっていた。
厨房に戻る。
健一が笑っている。
「珍しいな」
「何がですか?」
「顔、赤いぞ」
「……」
アポロンは黙った。
「転びそうになっただけだろ」
「分かっています」
「ならいいじゃないか」
「分かっているんですが……」
言葉が続かなかった。
健一は少し考えてから言った。
「恥ずかしいんだろ」
「……恥ずかしい?」
「そう」
アポロンはその言葉を聞いた。
恥ずかしい。
意味は知っている。
失敗した時。
人に見られた時。
自分が思ったようにできなかった時。
そういう時に感じるもの。
だが。
知識として知っていることと、自分の中に起きていることは違った。
「これが……恥ずかしいというものですか」
「たぶん」
健一は笑った。
「たぶん?」
「人によって違うからな」
アポロンは少し考えた。
その後も仕事を続けた。
けれど。
さっきのことを何度も思い出してしまう。
客はもう忘れている。
健一も気にしていない。
それでも、自分だけが覚えている。
仕事が終わる。
帰宅すると、美咲がいた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
アポロンは靴を脱ぐ。
「どうしました?」
「何が?」
「少し変ですよ」
アポロンは少し迷った。
「今日、仕事中に転びそうになった」
「えっ、大丈夫でした?」
「問題はない」
「よかった」
「でも、客に見られた」
美咲は少し笑った。
「それは恥ずかしかったですね」
「やはり、そうなのか」
「はい」
「なぜ?」
「見られたからじゃないですか?」
「見られただけで?」
「自分が失敗したところを見られると、恥ずかしいですよ」
アポロンは黙った。
「でも」
美咲が言う。
「たぶん、相手はそこまで覚えてないですよ」
「そうなのか?」
「はい。私だって、今日の朝何を食べたかもう曖昧です」
「それと同じなのか?」
「たぶん」
アポロンは少し笑った。
自分にとっては大きな出来事だった。
けれど。
他人にとっては、一日の中の小さな出来事にすぎない。
人間は。
自分の失敗を、自分だけで大きくしてしまうことがある。
「不思議だな」
「何がですか?」
「誰も気にしていないのに、自分だけが気にする」
美咲は少し考えた。
「そういうこと、ありますよ」
「人間は面倒だな」
「そうですね」
美咲は笑った。
アポロンも笑った。
夜。
ベッドに入る。
昼間の出来事を思い出す。
皿。
足元の荷物。
客の視線。
赤くなった顔。
もう一度思い出して。
アポロンは小さく息を吐いた。
「……明日には忘れているだろう」
そう思った。
そして。
それでいいと思った。
人間には。
誰かに見られたくない自分もいる。
忘れてほしい失敗もある。
それでも一日は続いていく。
神だった頃には、失敗する必要がなかった。
今は。
失敗して。
恥ずかしくなって。
それでも、次の日を迎える。
アポロンは目を閉じた。
今日のことを、少しだけ恥ずかしいと思いながら。
眠った。




