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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第三十五章 伝えたいだけのこと

仕事の帰り道。


アポロンは駅のホームに立っていた。


今日は特に何もなかった。


仕事をして。


昼食を食べて。


帰る。


いつもの一日だった。


電車を待っていると、スマートフォンが震えた。


美咲からだった。


『今日は仕事、疲れました』


アポロンは画面を見た。


少し考える。


『大丈夫?』


すぐに返信が来た。


『大丈夫です』


それだけだった。


アポロンはスマートフォンをしまった。


しばらくして、また震えた。


『今日、駅で猫を見ました』


アポロンは画面を開いた。


『猫?』


『はい。小さくて、かわいかったです』


少しして、写真が送られてきた。


駅の隅。


柱の近くに、小さな猫が座っている。


アポロンは写真を見た。


「……猫」


それ以上のことは分からない。


写真を拡大する。


猫がこちらを見ている。


『かわいいですね』


そう返信した。


すぐに美咲から返ってくる。


『でしょう?』


それだけだった。


アポロンは少し考えた。


猫がいた。


それを見た。


そして、美咲は自分に伝えた。


なぜだろう。


別に重要な情報ではない。


知らなくても困らない。


明日の予定にも関係しない。


それでも。


アポロンは、その写真をもう一度見た。


「……そういうことか」


電車が来た。


乗り込む。


座席に座る。


窓の外を見ながら、アポロンは考えた。


神だった頃。


人間から伝えられることには、必ず意味があった。


願い。


祈り。


報告。


質問。


何かを求める言葉。


だから、言葉とは情報を伝えるためのものだと思っていた。


けれど。


今日の猫の写真には、何かを求める言葉がない。


ただ。


見たから、伝えた。


それだけだった。


家に着く。


「ただいま」


「おかえりなさい」


美咲が台所から顔を出した。


「猫、どうでした?」


アポロンが聞く。


「まだ気になってるんですか?」


「写真を送ってくれたから」


美咲は笑った。


「かわいかったですよ」


「そうだな」


アポロンは少し考えた。


「君は、なぜ私に送った?」


「え?」


「猫の写真」


「ああ」


美咲は少し考えてから答えた。


「見た時に、アポロンさんにも見せたいなって思ったから」


「それだけ?」


「はい」


アポロンは黙った。


それだけ。


それでいい。


伝えたいから伝える。


必要だからではない。


役に立つからでもない。


ただ、誰かに見せたいと思ったから。


「なるほど」


「何か分かりました?」


「ああ」


「何ですか?」


アポロンは少し考えた。


「人間は、意味のないことも共有する」


美咲は笑った。


「意味がないわけじゃないですよ」


「そうなのか?」


「少なくとも、私はアポロンさんに見せたいと思いました」


アポロンはその言葉を聞いた。


そして、少しだけ笑った。


「それなら、意味がある」


「そういうことです」


夕食を食べる。


今日の仕事。


駅の猫。


明日の予定。


大した話ではない。


それでも会話は続いた。


夜。


アポロンは一人でスマートフォンを見ていた。


今日撮った写真はない。


送るものもない。


少し考える。


そして、窓の外を撮った。


夜の街。


いくつもの明かり。


特別な景色ではない。


アポロンは、その写真を美咲に送った。


『今日の帰り道です』


少しして、返信が来た。


『きれいですね』


アポロンは画面を見て、少し笑った。


何かを求めたわけではない。


何かを解決したわけでもない。


ただ。


自分が見たものを、誰かに伝えたかった。


それだけだった。


アポロンはスマートフォンを置いた。


神だった頃には、世界中の出来事を知っていた。


今は。


自分が見た小さな景色を、一人に伝える。


その違いが、少しだけ嬉しかった。

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