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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第三十三章 言われる前に

夕方。


美咲はいつもより遅く帰ってきた。


玄関のドアが開く。


「ただいま……」


声が少し小さい。


アポロンは振り返った。


「おかえり」


美咲は靴を脱いだ。


そのままソファに座る。


「疲れた?」


アポロンが聞いた。


「少しだけ」


「何かあった?」


「仕事が少し忙しかっただけです」


美咲は笑った。


「大丈夫ですよ」


アポロンは黙った。


以前なら、その言葉をそのまま受け取っていた。


大丈夫。


それなら問題ない。


けれど。


最近は、それだけでは判断できないことを知っている。


人間は、本当に大丈夫な時もそう言う。


少し無理をしている時も言う。


相手を心配させたくない時にも言う。


だから。


「何か食べる?」


「うん……」


美咲は少し考えた。


「でも、今日は作る気力がないです」


「分かった」


アポロンは立ち上がった。


「何をするんですか?」


「夕食を作る」


「大丈夫ですか?」


「昨日も作った」


「そうでしたね」


アポロンは冷蔵庫を開けた。


材料を見る。


野菜。


卵。


肉。


豆腐。


昨日よりも少し慣れている。


包丁を持つ。


野菜を切る。


火をつける。


美咲はソファからその様子を見ていた。


「手伝いましょうか?」


「今日はいい」


「でも……」


「休んでいて」


美咲は少し黙った。


「じゃあ、お言葉に甘えます」


「それでいい」


台所に音が戻る。


包丁の音。


鍋の音。


水の音。


アポロンは料理を作りながら、何度か美咲を見る。


目を閉じている。


眠ってはいない。


ただ、身体を休めている。


料理が完成する。


「できた」


美咲がゆっくり起き上がる。


「ありがとうございます」


二人でテーブルにつく。


「いただきます」


「いただきます」


美咲が一口食べた。


「美味しいです」


「本当か?」


「はい」


少し間を置いて。


「助かりました」


アポロンは箸を止めた。


「そうか」


「今日は本当に疲れていたので」


「なら、よかった」


食事を続ける。


会話は少なかった。


それでも、気まずくはなかった。


食事が終わる。


アポロンが皿を片付ける。


美咲が立ち上がろうとする。


「座っていて」


「でも」


「今日は私がやる」


美咲は少し笑った。


「分かりました」


アポロンは皿を洗った。


水が流れる。


泡が手につく。


以前なら、こんなことをする理由を考えていた。


今は、考えなくても分かる。


疲れている人がいる。


自分ができることがある。


だから、やる。


それだけだった。


皿を拭き終える。


振り返ると、美咲がソファに座ったままこちらを見ていた。


「どうした?」


「いえ」


美咲は少し笑った。


「なんだか、不思議だなと思って」


「何が?」


「最初に会った時は、何も知らない人だったのに」


アポロンは黙って聞いていた。


「今は、普通に一緒にご飯を食べて」


美咲は少し笑う。


「料理まで作ってもらって」


「そうだな」


「時間って、不思議ですね」


アポロンはその言葉を聞いた。


時間。


最初に会った日。


雨の日。


透明な傘。


自動販売機。


最初のラーメン。


最初の仕事。


最初の給料。


そして、今日。


すべてが繋がっている。


「時間が、人を変えるのかもしれない」


アポロンが言った。


「そうかもしれませんね」


美咲は目を閉じた。


「今日はもう寝ます」


「おやすみ」


「おやすみなさい」


美咲が部屋に入っていく。


アポロンは一人でリビングに残った。


静かな部屋。


けれど。


今日は、以前の静けさとは違った。


誰かがここにいて。


その人のために、自分が何かをした。


それだけで、部屋の空気が少し違って感じられた。


アポロンは台所を見る。


洗った皿が並んでいる。


「……言われる前に、できることもあるんだな」


小さく呟いた。


それは、誰かに命じられた行動ではなかった。


自分で見て。


自分で考えて。


自分で決めたことだった。


神だった頃には、必要のなかった選択だった。


けれど今は。


その選択をすることが、少し嬉しかった。

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