第三十二章 頼まれたこと
朝。
美咲は玄関の前で靴を履いていた。
「今日は少し早く出ます」
「分かった」
「それと……」
美咲は一度、部屋の中を見た。
「帰りに、牛乳を買ってきてもらえますか?」
アポロンは頷いた。
「いい」
「忘れないでくださいね」
「忘れない」
「じゃあ、お願いします」
「任せて」
美咲が出ていった。
ドアが閉まる。
アポロンはその場に少し立っていた。
牛乳。
それだけだった。
けれど。
「任せて」
自分でそう言ったことが、少し気になった。
神だった頃。
人間から頼まれることは多かった。
病気を治してほしい。
雨を降らせてほしい。
戦いを止めてほしい。
家族を守ってほしい。
願いは無数にあった。
そして、アポロンはそれらを叶えることができた。
しかし。
牛乳を買ってきてほしい。
そんな頼みは、一度もなかった。
仕事が終わる。
アポロンは駅へ向かった。
途中でスーパーに寄る。
牛乳を手に取る。
それだけのことだった。
会計を済ませる。
袋を持つ。
そして帰る。
家に着く。
冷蔵庫を開ける。
牛乳を入れる。
時計を見る。
まだ美咲が帰ってくるまで時間がある。
アポロンはソファに座った。
「……買ってきた」
誰もいない部屋で呟く。
別に誰かに褒められるわけではない。
大きな意味があるわけでもない。
それでも。
美咲が帰ってきた時に、牛乳がある。
それだけでいい。
夜。
玄関の鍵が開いた。
「ただいま」
「おかえり」
美咲が靴を脱ぐ。
「牛乳、買ってきました?」
「ああ」
「ありがとうございます」
美咲が冷蔵庫を開ける。
牛乳を見る。
「ちゃんとありますね」
「頼まれたから」
「助かりました」
アポロンは、その言葉を聞いた。
助かった。
たったそれだけの言葉だった。
けれど。
胸の奥が少し温かくなった。
「それなら、よかった」
美咲は笑った。
「今日は何か食べたいものあります?」
「何でもいい」
「じゃあ、簡単なものにしましょう」
二人で夕食を作る。
野菜を切る。
鍋を火にかける。
食器を並べる。
いつもの時間。
特別なことは何もない。
食事をしながら、美咲が言った。
「最近、アポロンさんにお願いすること増えましたね」
「そうなのか?」
「牛乳とか、パンとか」
「嫌なのか?」
「全然」
美咲は笑った。
「頼めるって、安心するんですよ」
アポロンは箸を止めた。
「安心する?」
「はい」
「なぜ?」
「自分だけで全部やらなくていいから」
アポロンは黙った。
その言葉を考える。
神だった頃。
世界のすべてを一人で背負うことが当然だった。
誰かに任せる必要はなかった。
誰かに頼る必要もなかった。
何でもできたからだ。
しかし、人間は違う。
できないことがある。
時間が足りないこともある。
忘れることもある。
だから、人に頼る。
そして、頼られた人はそれに応える。
「頼られることは、悪くないな」
アポロンが言った。
「そうですか?」
「ああ」
「じゃあ、またお願いします」
「分かった」
美咲が笑った。
食事が終わる。
二人で皿を洗う。
その途中で、美咲が言った。
「そういえば、明日の朝も牛乳ありますね」
「ある」
「よかった」
アポロンは冷蔵庫を見る。
白い牛乳の容器。
ただの牛乳だった。
けれど、それは今日の自分が誰かの頼みを受けて、買ってきたものだった。
それだけのことなのに。
アポロンは、少し嬉しかった。
誰かを救ったわけではない。
世界を変えたわけでもない。
ただ。
頼まれたことを、一つやった。
それで誰かが少し楽になる。
人間の生活は、そういう小さなやり取りでできているのかもしれない。
アポロンは、そう思った。




