第三十一章 先に決めないこと
仕事が終わった。
アポロンは店を出ると、スマートフォンを見た。
美咲からメッセージが来ていた。
『今日は先に帰っています』
アポロンは返信した。
『分かった』
駅へ向かう。
今日は何をするか、まだ決めていなかった。
昨日、美咲と話した通りだった。
明日になったら決めればいい。
駅に着いたところで、もう一度スマートフォンが震えた。
『もしよかったら、帰りにパンを買ってきてもらえますか?』
アポロンは少し考えた。
『何がいい?』
しばらく待つ。
返信が来た。
『アポロンさんが食べたいもので大丈夫です』
「……私が?」
少し意外だった。
何を買うかを自分で決めていい。
それなら簡単だ。
駅の近くの店に入る。
パンが並んでいる。
食パン。
クロワッサン。
メロンパン。
あんパン。
惣菜パン。
アポロンは一つずつ見ていった。
昨日までなら、必要なものを合理的に選んでいた。
しかし今日は違った。
「……これだ」
小さなクリームパンを手に取った。
そして、もう一つ。
美咲が好きそうなパンを選んだ。
会計を済ませる。
家に帰る。
「ただいま」
「おかえりなさい」
美咲が台所から顔を出した。
「パン、買ってきました」
「ありがとうございます」
袋を受け取る。
「何を買ったんですか?」
「自分が食べたいものと、君が好きそうなもの」
「私のも?」
「ああ」
美咲は袋の中を見た。
「あ、これ好きです」
「知っている」
「覚えてたんですね」
「以前、食べていた」
美咲は笑った。
「よく見てますね」
アポロンは少し考えた。
「見ているというより、覚えている」
「それって同じじゃないですか?」
「違う」
「どう違うんです?」
「見るだけなら、その場で終わる。でも、覚えていると後で思い出せる」
美咲は少し黙った。
「じゃあ、覚えてくれてたんですね」
「ああ」
二人でパンをテーブルに並べた。
アポロンは自分が選んだクリームパンを食べる。
甘い。
美咲も自分のパンを食べる。
「美味しいです」
「よかった」
「今日はどこか寄ってきたんですか?」
「パンを買っただけだ」
「そうですか」
食事が終わる。
美咲が皿を片付ける。
アポロンはその横でパンの袋を畳んだ。
ふと、思った。
今日は何も決めていなかった。
それでも、一日が終わった。
仕事をした。
駅を歩いた。
パンを選んだ。
美咲と食べた。
その一つ一つは、最初から決められていたわけではない。
神だった頃のアポロンにとって、未来は完成したものだった。
何が起こるのか。
誰が何をするのか。
すべてが最初から見えていた。
けれど、人間の一日は違う。
その場で決める。
途中で変える。
誰かに任せる。
時には、何も決めない。
そして、夜になってから振り返る。
「今日も一日、終わったな」
アポロンが言った。
美咲が笑う。
「まだ寝るには早いですよ」
「そうか」
「明日のことでも考えます?」
アポロンは少し考えた。
「いや」
「考えないんですか?」
「ああ」
「珍しい」
アポロンは窓の外を見た。
「今日は、明日のことを決めないでおく」
美咲は少し笑った。
「それもいいですね」
アポロンは頷いた。
明日が来ることは知っている。
けれど。
明日の自分が何をしたいと思うのかまでは、まだ決めなくてもいい。
そんな時間の過ごし方もある。
アポロンは、少しだけ楽な気持ちになった。




