第二十九章 自分の時間
仕事が休みの日。
朝から予定はなかった。
美咲は昼から仕事に出ると言っていた。
「今日は何をするんですか?」
出かける前に、美咲が聞いた。
「まだ決めていない」
「じゃあ、ゆっくりしてください」
「分かった」
玄関のドアが閉まる。
アポロンは一人になった。
昨日までなら、何かをしようと考えていた。
買い物。
散歩。
料理。
仕事の復習。
けれど、今日は何もしたくなかった。
ソファに座る。
スマートフォンを見る。
時間を確認する。
午前九時半。
まだ早い。
テレビをつける。
しばらく見ている。
消す。
本を開く。
数ページ読む。
閉じる。
「……何もしていない」
そう呟いた。
神だった頃。
時間には意味がなかった。
永遠に存在するものにとって、一時間も一年も、それほど大きな違いではない。
けれど、人間の一日は違う。
仕事がある。
休みがある。
朝があり、昼があり、夜がある。
そして、今日という日は一度しかない。
アポロンは時計を見た。
午前十時半。
一時間が過ぎていた。
それなのに、何もしていない。
少しだけ不安になった。
「何かしなければならないのか?」
誰に聞くでもなく、そう言った。
答えは返ってこない。
アポロンは立ち上がった。
冷蔵庫を開ける。
水を飲む。
窓を開ける。
外から風が入ってくる。
それだけだった。
けれど。
少し気持ちがよかった。
アポロンは椅子に座った。
何もしない。
ただ、外を見る。
通りを人が歩いている。
自転車が通る。
子どもが走っている。
犬を連れている人もいる。
それを眺めているうちに、昼になった。
簡単な昼食を作った。
食べ終わる。
皿を洗う。
そして、また何もしない。
午後二時。
スマートフォンが震えた。
美咲からだった。
『今日はどうしてますか?』
アポロンは少し考えた。
『何もしていない』
すぐに返信が来た。
『いいですね』
アポロンは画面を見た。
『何もしていないのに?』
『休みの日なら、それでいいと思います』
その文章を何度か読んだ。
休みの日なら、それでいい。
アポロンはスマートフォンを机に置いた。
「そうか」
人間には、何かをするための時間だけではなく。
何もしないための時間もある。
それも、自分で選べる。
夕方。
美咲が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「今日は何してたんですか?」
アポロンは少し考えた。
「何もしていない」
美咲は笑った。
「本当に?」
「ああ」
「ずっと?」
「ほとんど」
「珍しいですね」
「そうか?」
「アポロンさん、いつも何か考えてるから」
アポロンは少し黙った。
確かにそうだった。
何かを理解する。
何かを調べる。
何かを試す。
知らないものがあれば知ろうとする。
けれど今日は違った。
何も追いかけなかった。
何かを理解しようともしなかった。
ただ時間が過ぎるのを見ていた。
「今日は、自分の時間だった」
「自分の時間?」
「ああ」
「いい言葉ですね」
美咲は鞄を置いた。
「じゃあ、今日はゆっくりしたんですね」
「そうだな」
夕食の準備をする。
二人で台所に立つ。
美咲が野菜を切る。
アポロンが鍋を準備する。
特別な料理ではない。
それでも、自然に手が動く。
食事をしながら、美咲が言った。
「明日は仕事ですよね?」
「ああ」
「じゃあ、今日は早く寝ましょう」
「そうする」
食事が終わる。
片付けをする。
風呂に入る。
歯を磨く。
布団に入る。
一日を振り返る。
何も起きなかった。
大きな発見もない。
誰かを助けたわけでもない。
新しいことを学んだわけでもない。
それでも。
アポロンは今日という一日を、無駄だったとは思わなかった。
何もしなかった時間も、自分の人生の一部だった。
そして、その時間をどう使うかを決めたのも、自分だった。
目を閉じる。
明日は仕事。
その次の日も、おそらく仕事。
何日も先まで知っている。
それでも。
明日の朝になったら、また起きる。
そのことが、少し楽しみだった。




