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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第二十八章 小さな怒り

朝。


アポロンは、いつも通り店へ向かった。


駅を出ると、人が多かった。


今日は平日だった。


急いでいる人。


スマートフォンを見ながら歩く人。


駅の前で立ち止まって話している人。


アポロンは人の流れに合わせて歩いた。


その時だった。


後ろから誰かがぶつかった。


肩に強い衝撃があった。


「すみません」


声がした。


振り返る。


若い男性が歩きながらスマートフォンを見ていた。


謝ったものの、こちらをほとんど見ていない。


そのまま人混みの中へ消えていった。


アポロンは立ち止まった。


「……」


何かが胸の中に残った。


痛いわけではない。


怪我もない。


それでも、気分が悪かった。


なぜなのか分からない。


店に着いてからも、その感覚は残っていた。


「おはよう」


健一が声をかける。


「おはようございます」


「どうした?」


「何が?」


「少し機嫌が悪そうだ」


アポロンは黙った。


「……朝、知らない人にぶつかられた」


「それで?」


「謝られた」


「じゃあ、いいじゃないか」


「そうなのか?」


健一は少し笑った。


「怪我がないなら、まあな」


アポロンは仕事を始めた。


皿を洗う。


料理を運ぶ。


注文を取る。


いつも通りに動く。


しかし、何度も朝のことを思い出した。


謝った。


それなのに、なぜ気分が悪いのか。


昼休み。


アポロンは一人で店の裏に座っていた。


スマートフォンを見る。


特に連絡はない。


ポケットから、昨日もらったボールペンを取り出した。


手の中で転がす。


美咲なら、どう考えるだろう。


そう思った。


仕事が終わってから、美咲に話してみることにした。


「今日、少し怒った」


夕食の途中で、アポロンが言った。


美咲は箸を止めた。


「怒った?」


「ああ」


「何があったんですか?」


アポロンは朝の出来事を話した。


美咲は少し考えた。


「それは、嫌だったでしょうね」


「なぜ?」


「ちゃんと見てくれなかったからじゃないですか?」


アポロンは顔を上げた。


「見てくれなかった?」


「ぶつかったことより、ちゃんと向き合って謝ってくれなかったことが嫌だったのかもしれません」


アポロンは黙った。


そう言われてみると、思い当たる。


ぶつかられたこと自体は、大したことではなかった。


怪我もない。


時間も失っていない。


それでも嫌だった。


自分がそこにいる人間として扱われなかったように感じた。


「……なるほど」


「でも、相手にも事情があったのかもしれませんよ」


「それも分かる」


「じゃあ、もういいんじゃないですか?」


アポロンは少し考えた。


「怒ったままでも?」


「怒ること自体は悪くないと思います」


美咲は言った。


「ただ、その怒りをどうするかは、自分で決めればいいんじゃないですか?」


アポロンは黙った。


神だった頃なら、怒りという感情を持つ必要はなかった。


何か問題があれば、原因を消せばいい。


壊れたものなら直せばいい。


争いがあれば止めればいい。


けれど、人間にはそれができない。


だからこそ。


感情を抱えたまま、自分で扱わなければならない。


「怒りは、消さなくてもいいのか」


「無理に消す必要はないと思います」


「そうか」


アポロンは味噌汁を一口飲んだ。


少し冷めていた。


それでも美味しかった。


「明日になったら、忘れているかもしれない」


「そうですね」


「忘れなくても、もう気にしないかもしれない」


「それでいいと思います」


食事を続ける。


しばらくして、美咲が言った。


「でも、アポロンさんが怒るところ、ちょっと珍しいですね」


「そうか?」


「はい」


「怒っているように見えた?」


「少しだけ」


アポロンは考えた。


「私は、怒るのが下手なのかもしれない」


美咲は笑った。


「そんな練習しなくていいですよ」


アポロンも少し笑った。


その夜。


一人になってから、アポロンは朝のことを思い出した。


まだ少しだけ腹が立つ。


けれど、もうそれほど気にならなかった。


怒りは、消したわけではない。


ただ、自分の中で少し形が変わっていた。


アポロンは窓の外を見た。


夜の街には、たくさんの人がいる。


その一人一人が、今日一日で何かに腹を立てたり、笑ったり、悲しんだりしている。


神だった頃には、それらをすべて知っていた。


けれど。


知っていることと、自分の中に感情として残ることは、やはり違っていた。


アポロンは静かに目を閉じた。


「……人間は、忙しいな」


小さく呟いてから。


少しだけ笑った。

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