第二十七章 贈り物
朝。
アポロンが起きると、テーブルの上に小さな紙袋が置かれていた。
見覚えのない袋だった。
「これは?」
台所にいた美咲が振り返る。
「あ、それですか?」
「ああ」
「昨日、帰りに買ったんです」
美咲は少し迷うように笑った。
「アポロンさんに」
アポロンは紙袋を見た。
「私に?」
「はい」
「なぜ?」
「特に理由はないです」
「理由がないのに?」
美咲は笑った。
「理由ならありますよ」
そう言って、袋をアポロンの前に置いた。
「最近、アポロンさんがよく使ってるものだから」
アポロンは袋を開けた。
中には、新しいボールペンが入っていた。
黒い、普通のボールペン。
特別高価なものではない。
アポロンはそれを手に取った。
「ボールペン」
「はい」
「これを、私に?」
「そうです」
アポロンはしばらく眺めていた。
「どうしてこれなんだ?」
「仕事の時、よく使ってるじゃないですか」
「……そうだったな」
確かにそうだった。
店でメモを取る時。
買い物のリストを書く時。
スマートフォンだけでは足りない時。
いつも同じボールペンを使っていた。
「前のは少し書きにくそうだったので」
美咲が言った。
「新しいほうがいいかなと思って」
アポロンはボールペンを握った。
書いてみる。
紙の上に黒い線が伸びる。
普通の線だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それだけの会話だった。
けれど、アポロンはボールペンを何度も見た。
「何か気になります?」
美咲が尋ねる。
「いや」
少し考えてから、答える。
「物をもらうのは、初めてではない」
「そうですか?」
「以前にも食べ物をもらった」
「そうでしたね」
「だが、これは少し違う」
「何が?」
アポロンは答えを探した。
食べ物は食べればなくなる。
飲み物もなくなる。
服は使えば古くなる。
けれど、このボールペンには別のものがある。
「私が普段使っていることを、覚えていた」
美咲は少し驚いた顔をした。
「そんなに大したことじゃないですよ」
「私には大したことだ」
アポロンは言った。
「私が使っているものを見て、それを覚えていた。そして、私のために選んだ」
美咲は何も言わなかった。
アポロンは続けた。
「物ではなく、考えていた時間をもらったような気がする」
「……そういうことなら」
美咲は少し照れたように笑った。
「使ってください」
「ああ」
アポロンは頷いた。
その日、仕事に行く時。
新しいボールペンをポケットに入れた。
店に着く。
健一が気づいた。
「新しいな、それ」
「もらった」
「誰に?」
「美咲に」
健一は少し笑った。
「よかったな」
「……ああ」
アポロンはペンを手に取った。
注文を書き留める。
名前を書く。
数字を書く。
いつもと同じ仕事だった。
けれど、今日は少し違った。
ペンを使うたびに、美咲がこのペンを選んだ時のことを思い出す。
店の中で商品を見て。
自分が普段使っている姿を思い出して。
これなら使うだろうと思って。
買った。
たったそれだけのこと。
それでも。
人間は、そういう小さなことを覚えている。
仕事が終わる。
アポロンはペンをポケットにしまった。
帰り道、夕方の街を歩く。
スマートフォンを見る。
美咲からメッセージが来ていた。
『今日もお疲れさまでした』
アポロンは少し考えてから返信した。
『ありがとう。ペンも大切に使う』
すぐに返信が来た。
『そんなに大事にしなくても大丈夫ですよ』
アポロンは画面を見て、少し笑った。
「そういうものなのか」
誰かからもらったものを大切にする。
なくしたくないと思う。
けれど、使わなければ意味がない。
その間で、人は物との距離を決めていく。
家に帰る。
アポロンは机の上にボールペンを置いた。
そして、明日の仕事のためにノートを開いた。
黒い線が、紙の上に伸びる。
それを見ながら、アポロンは思った。
物そのものよりも。
それを自分に渡そうと思ってくれたことのほうが、嬉しい。
そんな気持ちを知ったのは、今日が初めてだった。




