↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

289/290

第289章 まだ知らない明日

翌朝。


アポロンは、目を覚ますとしばらく天井を見ていた。


身体の内側に、以前とは違う感覚があった。


静かで、深い。


意識を向ければ、遠くまで届く。


かつて失われたものが、確かに戻ってきていた。


彼はゆっくりと目を閉じた。


世界の広がりを感じる。


山々。


海。


街。


人々の暮らし。


その存在を、以前よりも明確に捉えることができた。


けれど、すべてではない。


誰が今、何を考えているのか。


どこで何が起きようとしているのか。


明日、誰が笑い、誰が泣くのか。


それらは分からなかった。


アポロンは目を開けた。


「……そうか」


小さく呟いた。


神性が戻ったことと、以前とまったく同じ存在になることは、同じではなかった。


彼は布団から出て、窓を開けた。


冷たい空気が入ってくる。


遠くで鳥が鳴いていた。


「起きたの?」


美咲が部屋の入口から顔を出した。


「ああ」


「早いね」


「少し、確かめていた」


「何を?」


「自分が戻ったのかどうか」


美咲は彼の顔を見た。


「戻ったの?」


「神としての力は、戻り始めている」


「始めている?」


「すべてが元通りになったわけではない」


美咲は頷いた。


「それでも、よかったんじゃない?」


アポロンは少し考えた。


「そうだな」


それ以上、二人は話さなかった。


朝食を食べ、仕事へ向かう準備をする。


いつもと変わらない時間だった。


ただ、玄関を出る前に、アポロンは一度だけ振り返った。


ここで暮らした時間。


美咲と交わした会話。


健一の店で覚えた仕事。


人間の身体で感じた疲労や痛み。


それらを、以前の彼なら、些細な出来事として扱ったかもしれない。


今は違う。


何もかもを知っていた頃には、必要のなかった経験だった。


しかし、それらを経験したことで、彼は自分の願いが何を意味するのか、少しずつ理解できるようになった。


店に着くと、健一が入口を開けていた。


「おはよう」


「おはよう」


「今日は早いな」


「少し目が覚めた」


健一は彼を見て、何か言いかけた。


けれど、結局、いつものように店の中を指さした。


「じゃあ、先に準備を頼む」


「分かった」


アポロンはエプロンを身につけた。


包丁を取り、野菜を切る。


鍋に火を入れる。


皿を並べる。


一つずつ、いつもの仕事を始めた。


神性が戻っても、包丁の持ち方が自動的に上手くなるわけではない。


料理の味が、何もせずに決まるわけでもない。


彼は今まで覚えたことを使いながら、手を動かした。


昼過ぎ、森川から連絡が届いた。


契約の反転処理は継続して監視されている。


0000による新たな集約処理は確認されていない。


過去の処理による影響については、関係者の記録と現在の状況を照合する作業が始まっていた。


失われた個別記録の一部は、まだ見つかっていない。


すべての人に何が起きたのかを、すぐに説明できる状態ではなかった。


アポロンは返信した。


『確認を続けてください。分からないことを、分かったことにする必要はありません』


送信してから、彼は携帯電話をしまった。


今できることは、これだけだった。


過去を一度に修復することはできない。


けれど、これ以上、同じ処理が繰り返されないようにすることはできる。


そして、残された問題を、一つずつ確認することもできる。


夕方、仕事を終えたアポロンは、帰り道の小さな店に立ち寄った。


鉢植えが並んでいた。


以前、美咲と選んだものとは違う種類の植物が、棚の上に並んでいる。


彼はしばらく眺めたあと、小さな鉢を一つ選んだ。


理由は、特になかった。


葉の形が気に入った。


それだけだった。


家に帰ると、美咲が先に戻っていた。


「それ、どうしたの?」


「買った」


「植物?」


「そうだ」


美咲は鉢を受け取り、葉を見た。


「かわいいね」


「そう思った」


「どこに置く?」


アポロンは部屋を見回した。


窓辺には、以前から育てている鉢植えがある。


棚の上には、まだ少し空きがあった。


「そこに置こう」


二人で場所を決めた。


鉢を置き、水を少し与える。


それだけで、作業は終わった。


夕食のあと、アポロンは窓辺に座った。


街の明かりが、少しずつ増えていく。


彼は、意識を遠くへ伸ばすことができた。


以前なら、世界の広がりを確かめることに、何の難しさもなかった。


今も、その一部はできる。


しかし、彼は意識を広げるのをやめた。


窓の外を走る車を見た。


向かいの家に明かりがつく。


誰かが帰宅したのかもしれない。


その人が何を考えているのかは、分からなかった。


知ろうとも思わなかった。


美咲が隣に座った。


「何を見ているの?」


「街」


「いつも見てるじゃない」


「そうだな」


美咲は笑った。


「変なの」


「そうかもしれない」


しばらく、二人で窓の外を眺めていた。


やがて美咲が尋ねた。


「これから、どうするの?」


アポロンはすぐには答えなかった。


神としての力を、どこまで取り戻すのか。


どのように使うのか。


この先も人間として暮らすのか。


それとも、別の生き方を選ぶのか。


今の彼には、まだ決められないことがあった。


以前の彼なら、答えを得るために世界のすべてを見渡しただろう。


今は、そうしなかった。


「まだ分からない」


美咲は頷いた。


「そっか」


「それでもいいのか?」


「何が?」


「分からないままでも」


美咲は少し考えた。


「だって、明日のことなんて、私にも分からないよ」


「そうだな」


「決める必要があるときに、決めればいいんじゃない?」


アポロンは窓の外を見た。


「そうする」


その夜、彼はいつもと同じ時間に眠った。


世界は、彼が眠っている間も動き続ける。


どこかで誰かが生まれ、どこかで誰かが別れ、誰かが仕事を終え、誰かが明日の準備をする。


そのすべてを、彼は知っているわけではない。


けれど、知らないことがあるからといって、世界が失われるわけではなかった。


朝になれば、また目を覚ます。


何かを食べ、誰かと話し、自分にできることをする。


必要になれば、神としての力を使うこともあるだろう。


けれど、それをいつ、どのように使うのかは、これから考えればいい。


アポロンは、まだ知らない明日を迎えるために、目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。