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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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番外 神は明日を知っている

神殿には、朝も夜もあった。


ただし、アポロンにとって、それらは時間を区切るためのものではなかった。


空が明るくなる時刻を知っている。


太陽がどの位置に昇るのかも知っている。


海の向こうで嵐が生まれ、山の麓で雨が降り、遠い街で誰かが生まれることも、必要ならば知ることができた。


世界は広かった。


けれど、知らないことは少なかった。


アポロンは神殿の窓辺に立ち、地上を眺めていた。


人間たちが暮らしている。


街には店が並び、畑には人が出て、港では船が荷物を積み込んでいた。


誰かが働き、誰かが休み、誰かが家族と食事をしている。


その光景は、何度見ても変わらないように思えた。


もちろん、実際には違う。


昨日とは別の人が店を開けている。


畑では新しい作物が育ち、港には別の船が入ってくる。


人間たちは毎日、少しずつ違うことをしていた。


それでも、アポロンには、その違いの多くが分かっていた。


誰が何をしようとしているのか。


何を得ようとしているのか。


どのような結果になるのか。


彼は、必要なことを知ることができた。


だからこそ、迷う必要がなかった。


欲しいものがあれば、手に入れればいい。


確かめたいことがあれば、確かめればいい。


何かを失う可能性があれば、その可能性を避けることもできた。


神としての生活に、不自由はほとんどなかった。


それなのに。


アポロンは、時々、窓辺を離れられなくなった。


地上の人間たちを見ていると、気になることがあったからだ。


ある日、彼は小さな街の広場に目を向けた。


一人の少年が、木の棒を握って走っていた。


その後ろを、同じくらいの年齢の子供たちが追いかけている。


少年は何度も転びそうになりながら、広場の端まで走った。


最後には、足を滑らせて地面に座り込んだ。


周囲の子供たちが笑った。


少年も笑った。


それから、もう一度立ち上がり、同じように走り始めた。


アポロンは、その様子をしばらく見ていた。


なぜ、同じことを繰り返すのだろう。


一度失敗したのなら、次にどうなるかは分かる。


転ぶことが分かっているなら、別の方法を選べばいい。


それでも少年は、また走った。


そして、今度は最後まで転ばずに走り切った。


少年は両手を上げ、友人たちに何かを叫んだ。


友人たちも声を上げた。


その喜びが何によるものなのか、アポロンには理解できなかったわけではない。


できなかったことができるようになった。


それを喜んでいる。


理由は分かる。


けれど。


アポロンは、自分が同じことをしても、同じようには喜ばないだろうと思った。


最初から、できると分かっているからだ。


転ばないように走ることもできる。


一度も失敗せずに、目的地へたどり着くこともできる。


だが、それを成し遂げたところで、何かが変わるわけではなかった。


彼は、視線を別の場所へ移した。


街の食堂では、数人の人間が食事をしていた。


一人の男が、料理を口に運んでいる。


しばらくすると、男は店主に何かを伝えた。


店主は笑い、別の皿を用意した。


男はそれを食べ、満足したように頷いた。


食事をすること。


腹を満たすこと。


味を楽しむこと。


それらは、アポロンにも理解できた。


必要なら、同じ料理を用意することもできる。


どのような味がするのかも、知ることができる。


しかし、彼は気づいた。


あの男は、食べる前から、どのような味がするのかを完全には知らなかったのだ。


思っていたより美味しいこともある。


期待したほどではないこともある。


一口目と二口目で、感じ方が変わることもある。


男は、それらを確かめながら食べていた。


アポロンは、自分の手を見た。


神殿で食事をすることはできる。


けれど、食べる必要はなかった。


満たされるために、何かを口にする必要もない。


それが不自由だとは思わなかった。


ただ、彼には分からないことがあった。


人間たちは、どうしてそれほど小さなことを楽しめるのだろう。


失敗しても、また試す。


知らない味を確かめる。


明日になれば、今日とは違うことが起きると考える。


その違いが、彼らにとっては大切なものらしかった。


アポロンは、神殿の奥へ戻った。


そこには、長い時間を共に過ごしてきた神侍従が控えていた。


「何かお考えですか」


神侍従が尋ねた。


「人間について考えていた」


「地上の暮らしですか」


「ああ」


アポロンは椅子に腰を下ろした。


「人間たちは、知らないことを恐れることがある」


「はい」


「それなのに、知らないことを楽しむこともあるようだ」


神侍従は少し考えた。


「知らないことがあるからこそ、確かめる楽しみがあるのかもしれません」


「確かめれば、分かる」


「はい」


「分かれば、その先も分かる」


神侍従は答えなかった。


アポロンは続けた。


「だが、人間たちは、分かる前の時間も楽しんでいるように見える」


「すべてが分かっているわけではありませんから」


「そうだな」


それは、当然のことだった。


人間は神ではない。


知ることのできる範囲には限りがある。


自分の身体にも限りがあり、一日にできることにも限りがある。


そのために、選ばなければならない。


何をするのか。


何を後回しにするのか。


誰と会い、何を話し、どこへ向かうのか。


そして、選んだことの結果がどうなるのかは、必ずしも分からない。


アポロンは、その仕組みを理解していた。


理解していたが、経験したことはなかった。


「私が人間になったら」


彼は、何気なく口にした。


神侍従が顔を上げた。


「人間になられたら、ですか」


「ああ。私も、あの者たちのように暮らせるのだろうか」


「暮らすことはできるでしょう」


「そうか」


アポロンは、再び窓の外を見た。


人間になれば、知らないことが増えるだろう。


思いどおりにならないことも増える。


身体が疲れ、時間が足りなくなり、何かを選べば、別の何かを諦めなければならないこともある。


それを、わざわざ望む理由があるのだろうか。


神としての生活を捨てるほどの価値があるのだろうか。


彼には、まだ分からなかった。


だからこそ、気になった。


ある日の午後、アポロンは地上の小さな街を眺めていた。


店先で、一人の少女が花を買っていた。


少女は花を受け取り、代金を支払った。


店を出ると、花を手にしたまま、しばらく歩いていた。


やがて、道の向こうから来た女性を見つけた。


少女は駆け寄り、花を差し出した。


女性は驚き、何かを尋ねた。


少女は笑いながら答えた。


女性も笑った。


二人は並んで歩き始めた。


アポロンは、その一連の出来事を見ていた。


花を買うことは、難しくない。


花を渡すことも、難しくない。


相手が喜ぶかどうかを予測することもできる。


それでも、少女は花を渡す前に、少しだけ緊張していた。


女性が笑った時、少女の表情が明るくなった。


予測していた結果が実現しただけではない。


少女は、その瞬間を実際に迎えたのだ。


アポロンは、しばらく考えた。


もし、自分が同じことをするなら。


花を渡す相手が喜ぶことを、最初から知っていたら。


それでも、自分は同じように花を買うだろうか。


同じように、相手の反応を待つだろうか。


答えは出なかった。


その夜、神侍従がアポロンのもとを訪れた。


「地上の人間たちを、よくご覧になっていますね」


「そうかもしれない」


「何か、気になることがあるのですか」


アポロンは、少し考えてから答えた。


「私は、世界を知ることができる」


「はい」


「けれど、知ることと、実際に生きることは違うのかもしれない」


神侍従は黙って聞いていた。


「人間たちは、明日何が起きるのかを知らない。それでも、明日のために何かを用意する。明日になれば、今日とは違うことが起きると考えている」


「そうですね」


「私は、明日を知ることができる」


アポロンは、窓の外を見た。


「それなのに、明日を待つということが、どのようなものなのかは知らない」


神侍従は、しばらく言葉を探していた。


「アポロン様は、明日を知ることができても、明日を生きたことはないのですね」


その言葉に、アポロンは視線を戻した。


「……そうだな」


初めて、その違いが言葉になった気がした。


彼は、世界について多くのことを知っていた。


人間の歴史も、暮らしも、喜びも、悲しみも。


けれど、知識として知っていることと、自分の時間を使って経験することは同じではなかった。


人間たちは、限られた時間の中で生きている。


何かを待てば、その分だけ時間が過ぎる。


失敗すれば、やり直すために時間が必要になる。


誰かと過ごせば、その時間は別のことには使えない。


そして、一度過ぎた時間は、同じ形では戻ってこない。


それでも人間たちは、明日を迎える。


何が起きるか分からないまま、今日を終え、眠りにつく。


アポロンは、そのことを考えた。


もし、自分も同じように生きることができたなら。


朝になって目を覚まし、今日何をするのかを考える。


食べたいものを選び、会いたい人に会い、できないことに挑戦する。


失敗したら、理由を考えてやり直す。


知らないことがあれば、誰かに尋ねる。


そして、夜になれば、一日を終える。


何も特別なことが起きない日もあるだろう。


期待したことが、うまくいかない日もあるだろう。


それでも、自分で選んだ一日として、その時間を過ごすことができる。


アポロンは、まだ人間になったことがなかった。


人間の身体がどのようなものなのかも、実際には知らなかった。


疲労がどれほどのものなのか。


空腹がどのように感じられるのか。


誰かと一緒に食事をすることが、どれほど楽しいのか。


そのすべては、想像することしかできなかった。


けれど、彼は思った。


知っているだけでは、分からないことがある。


ならば、一度、自分で経験してみたい。


それは、神としての力を嫌ったからではなかった。


神であることを捨てたいと、最初から決めていたわけでもなかった。


ただ、自分が知らない生き方が、そこにあるように思えたのだ。


アポロンは、窓辺から離れた。


神殿の中は静かだった。


遠くでは、人間たちが今日を終えようとしている。


誰かが食事をし、誰かが家に帰り、誰かが明日の予定を考えている。


その中には、明日が楽しみな者もいるだろう。


明日を不安に思う者もいるだろう。


何も考えず、眠ろうとしている者もいるかもしれない。


彼らが明日をどう迎えるのか。


それを知ることはできた。


けれど、知るだけでは足りないと思った。


アポロンは、神侍従に向き直った。


「もし、私が何も知らない人間だったら」


神侍従は静かに聞いていた。


「明日を、どう生きるのだろう」


その問いに、神侍従は答えなかった。


答えられなかったのかもしれない。


あるいは、答える必要がないと考えたのかもしれない。


アポロン自身にも、答えは分からなかった。


ただ、その問いは、彼の中に残った。


その日から、彼は地上の人間たちを、以前とは少し違う目で見るようになった。


彼らが何を知っているのかではなく。


何を知らずに選び、何を待ち、何を経験しているのか。


そして、いつか自分も、その一人になれるのか。


まだ、何も決まっていなかった。


けれど、アポロンは初めて、明日を知ることのできない自分を想像した。


それは、神としての彼が初めて抱いた、ひとつの願いだった。

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