第288章 明日を取り戻す
翌朝、森川たちは初期契約の終了処理について、確認できた資料を整理した。
選択肢は二つあった。
現行処理の停止。
契約の反転。
前者は、0000による処理を止める方法だった。
ただし、それだけでは、協力者から提供されたものと、アポロンの神性に関する処理がどのような状態で残るのか分からない。
後者は、初期契約の流れそのものを逆にする方法だった。
提供されたものを一方的に集約し、支援対象へ移す仕組みを止める。
そして、人間化のために拘束されているアポロンの神性を、契約の対象から解放する。
ただし、反転処理がどこまで成功するかは保証されていなかった。
「契約の反転には、実行主体の協力が必要です」
高瀬が説明した。
「神侍従は協力すると答えています。ただし、提供資源の個別記録が欠けているため、処理後にすべての影響を確認できるわけではありません」
森川は、アポロンを見た。
「それでも進めますか」
アポロンは、すぐには答えなかった。
彼が人間になりたいと願ったのは、世界を捨てたかったからではない。
すべてを知り、すべてを見通す存在でいることから離れ、自分の目で見たものを、自分で考え、自分で選んでみたかった。
その願いは、今も変わらない。
しかし、その願いを実現するために、他の人間が自分の意思を確かめられないまま、何かを失い続けるのなら。
それは、彼が望んだ生き方ではなかった。
「進めてくれ」
アポロンは言った。
「ただし、私を人間にすることだけを目的にしてはいけない。協力者から提供されたものを、これ以上、本人の意思を確認せずに使わないこと。それを条件にする」
森川は、その条件を記録した。
高瀬が神侍従との接続を開いた。
『確認しました』
神侍従の声が聞こえた。
『初期契約の目的は、創造主の人間化を支援することでした。しかし、契約は支援対象の意思を無視して継続するためのものではありません』
「ならば、契約を反転させる」
アポロンが言った。
『はい』
画面に、契約の原文が表示された。
目的。
支援対象。
協力者。
提供資源。
実行主体。
そして、終了条件。
初期契約に記された項目が、一つずつ照合されていった。
最後に、確認事項が表示された。
「創造主本人の意思」
アポロンは画面を見た。
「私は、現在の人間化支援を終了することを望む。協力者の提供資源を、本人の意思を確認せずに使用し続けることも望まない。契約の範囲を超えた処理を停止し、初期契約に基づく関係を反転させる」
一つずつ、言葉を区切って告げた。
「以上が、私の意思だ」
画面に、確認結果が表示された。
「本人意思:確認済み」
その下に、新しい項目が現れた。
「初期契約の再確認」
神侍従が続けた。
『私の意思も確認してください』
森川は少し驚いたように画面を見た。
「あなたの意思ですか」
『私は初期契約の実行主体です。契約を作った者として、その責任を引き受けます。提供資源の集約処理を停止し、契約の反転に協力します』
「確認しました」
森川が記録を残すと、次の項目へ進んだ。
「提供資源の移転処理を停止します」
画面の表示が変わった。
「共通処理:停止要求」
「対象範囲:全体」
「処理状態:確認中」
しばらく、何も起こらなかった。
山本が画面を見つめていた。
「止まらないんでしょうか」
「まだ分かりません」
森川は答えた。
その時、別の表示が現れた。
「終了条件未達」
「人間化の完了を確認できません」
高瀬が言った。
「現在のシステムは、まだ人間化の完了を終了条件にしている」
アポロンは、画面に向かって言った。
「その条件は、私の意思によって終了するという初期契約の条件と一致していない」
神侍従が答えた。
『初期契約の原文を優先します』
画面に、新しい照合結果が表示された。
「初期契約の終了条件を確認しました」
「現行処理の終了条件との不一致を検出」
「契約の反転を開始します」
その瞬間、画面から文字が消えた。
すべての表示がなくなり、黒い画面だけが残った。
森川たちは、操作をせずに待った。
数秒後、低い音が聞こえた。
何かが遠くで崩れるような音だった。
アポロンは、胸の奥に意識を向けた。
これまで、そこには何かが引っかかっていた。
自分のものなのに、自由には動かせないもの。
手を伸ばしても、以前のようには届かないもの。
それが、少しずつほどけていく。
同時に、遠くにあったものが戻ってくるような感覚があった。
彼は目を閉じた。
かつて知っていた世界が、一瞬だけ広がった。
遠くの街。
山の向こう。
海の底。
数えきれない人々の存在。
それらを、彼は再び感じ取った。
しかし、以前と同じではなかった。
すべてを知っているわけではない。
誰かの考えも、明日の出来事も、完全には分からない。
ただ、自分の内側にあった制限が、一つずつ消えていくのを感じていた。
画面が再び明るくなった。
「契約の反転:完了」
「人間化支援処理:終了」
「提供資源の集約処理:停止」
「神性拘束処理:解除」
森川は、表示を一つずつ確認した。
最後に、別の項目が現れた。
「個別提供資源の返還状態:確認中」
「過去の処理による影響:個別確認が必要」
高瀬が息を吐いた。
「全部が元に戻ったわけではないんですね」
「はい」
森川は答えた。
「処理は止まりました。ただし、誰が何を提供し、その後どうなったのかは、引き続き確認しなければなりません」
アポロンは、静かに頷いた。
彼の神性は戻り始めていた。
だが、それによって、失われた記録がすべて復元されたわけではない。
協力者たちの生活が、すべて元に戻ったわけでもない。
人間化を支援するために作られた仕組みが停止したことと、その仕組みが生み出した影響を解決することは、別の問題だった。
それでも。
世界のどこかで、まだ続いているはずだった処理が止まった。
それだけは、確認できた。
神侍従が、最後に言った。
『アポロン様。神性の回復がどこまで進むかは、私にも分かりません』
「分かっている」
『それでも、私はあなたが再び神として立つことを願います』
アポロンは、しばらく黙っていた。
「私は、神であることだけを望んでいたわけではない」
『はい』
「人間として生きたいと願ったことも、今の私を作っている」
『……はい』
「だから、戻ったものを使って、以前と同じ存在に戻ろうとは思わない」
神侍従は答えなかった。
やがて、接続が終了した。
画面には、契約終了の記録だけが残っていた。
その日の夕方、アポロンは一人で外へ出た。
いつもの道を歩く。
交差点で信号を待つ。
自転車が通り過ぎる。
小学生たちが笑いながら走っていく。
遠くから、電車の音が聞こえた。
以前なら、その音がどこから来て、どこへ向かうのか、すべて知ることができた。
今は、音が聞こえるだけだった。
けれど、それでよかった。
彼は空を見上げた。
世界は、まだそこにあった。
明日、何が起きるのかは分からない。
けれど、もう誰かの願いを理由に、世界のすべてが一つの目的へ向かって動かされることはない。
アポロンは、ゆっくりと歩き出した。
神としての力が戻っても、人間として過ごした時間が消えるわけではなかった。
知らないことを尋ねたこと。
失敗して、やり直したこと。
誰かの言葉を聞き、自分の考えを変えたこと。
その一つ一つは、神性が失われていたからこそ得られたものだった。
彼は、それを手放すつもりはなかった。
家に帰ると、美咲が台所に立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「何かあった?」
アポロンは少し考えた。
「終わった」
美咲は手を止めた。
「全部?」
「契約は終わった。世界を動かしていた処理も止まった。ただ、これまでに起きたことの確認は、まだ続く」
「そっか」
美咲は、それ以上、詳しく尋ねなかった。
「じゃあ、ご飯にしよう」
「ああ」
二人は食卓についた。
窓の外では、いつもと変わらない街の音がしていた。
アポロンは、その音を聞いた。
すべてを知ることのできた神が、明日を知らない人間として生きてみたいと願った。
その願いは、形を変えながら、今も彼の中に残っている。
そして今、彼は再び神になりつつある。
それでも、明日をすべて知りたいとは思わなかった。
明日が分からないからこそ、自分で選ぶことができる。
誰かと話し、考え、時には間違えながら、次の日を迎えることができる。
アポロンは箸を置き、美咲に尋ねた。
「明日は、何をする?」
美咲は少し笑った。
「明日になったら考えよう」
「そうだな」
彼も笑った。
明日のことは、まだ分からない。
それでよかった。




