第287章 神侍従との再会
森川たちは、神侍従に関する記録を探していた。
初期契約の申請者。
支援実行に関する説明資料の作成者。
そして、0000の登録時に支援機構の構築を担当した存在。
それらの記録には、同じ役割名が繰り返し現れていた。
しかし、氏名も、現在の所在も記されていない。
「神侍従という役割だけが残っているんですね」
山本が言った。
「少なくとも、今の記録ではそうです」
森川は答えた。
「個人を特定できる情報が失われたのか、最初から役割名だけで管理されていたのか。それもまだ分かりません」
高瀬は、初期設定資料の末尾を確認していた。
そこに、一つの記載があった。
「支援対象との連絡経路については、実行主体が保持する」
その下には、古い参照番号が記されていた。
これまでの移管一覧には見当たらなかった番号だった。
高瀬が検索条件を変えると、別の管理区分に一件だけ該当する記録が見つかった。
名称は「支援実行主体・連絡先」。
登録状態は、停止でも削除でもなかった。
「有効になっています」
森川は画面を見た。
「現在も?」
「最終確認日は不明です。ただ、参照先は残っています」
記録には、接続先を確認するための手順があった。
ただし、実行主体への連絡が成立するかどうかは保証されていない。
森川は、その手順を確認し、必要な許可を得たうえで照会を実行した。
最初は、何も起こらなかった。
数秒後、画面の表示が変わった。
「初期支援実行主体を確認しています」
山本が息を止めた。
表示はしばらく続いた。
やがて、新しい文章が現れた。
「創造主本人の意思確認を要求します」
森川はアポロンへ連絡した。
「システムが、あなた本人の意思確認を求めています」
「何を確認する?」
「初期支援実行主体との連絡を開始するためのものです。接続後に何が起きるかは、まだ分かりません」
アポロンは少し考えた。
「私の意思は、すでに伝えてある」
「はい。ただ、今回の照会は別の手続きとして扱われています。内容を確認してから進めることもできます」
「確認しよう」
森川は、表示されている説明を読み上げた。
接続の目的は、初期支援契約の履行状況を確認すること。
接続によって新たな契約が成立するものではないこと。
また、接続先が本人の意思を変更する権限を持つかどうかは、確認されていないこと。
アポロンは最後まで聞いた。
「進めてくれ」
森川が操作すると、画面に新しい記録が表示された。
「創造主本人の意思を確認しました」
その直後、別の文章が続いた。
「初期支援実行主体との連絡を開始します」
画面が暗くなった。
数秒後、音声が流れた。
『……アポロン様』
古い記録を読み上げるような、わずかに途切れる声だった。
けれど、その呼び方を聞いた瞬間、アポロンの表情が変わった。
彼は、その声を知っていた。
神殿の回廊。
高い窓から差し込む光。
人間たちの暮らしを眺めていた自分のそばに、いつも控えていた存在。
名前を呼ぶ必要のないほど、長い時間を共に過ごしていた相手。
「お前か」
アポロンが言った。
『はい』
「今まで、どこにいた」
しばらく沈黙があった。
『支援機構の内部に、私の記録と権限の一部が残っています。ただし、現在のシステム全体を制御できる状態ではありません』
「0000を作ったのは、お前か」
『はい。初期の支援機構を設計し、登録しました』
「協力者との契約も?」
『私が準備しました。契約の締結に関わり、提供されたものを支援機構へ渡す手順を整えました』
森川たちは、音声を記録していた。
アポロンは、すぐには次の質問をしなかった。
やがて、静かに尋ねた。
「なぜ、私に何も説明しなかった」
『あなたが人間として生きたいと願っていたからです』
「それは答えになっていない」
『……はい』
声が途切れた。
『私は、あなたの願いを知っていました。人間たちと同じように、限られた時間の中で暮らしてみたい。すべてを知るのではなく、自分で選び、結果を受け止めながら生きたい。そう考えておられることを』
アポロンは目を伏せた。
その記憶はあった。
だが、それは誰かに自分の神性を差し出すよう命じた記憶ではなかった。
『私は、願いを実現するために必要な支援を準備しようとしました。協力者たちは、あなたを信頼し、力になりたいと考えていました』
「協力者たちは、自分が何を失う可能性があるのか、理解していたのか」
長い沈黙が続いた。
『提供するものが、支援機構へ移されることは説明しました。しかし、その後の処理がどこまで拡張されるかまでは、想定していませんでした』
「人間化が完了するまで、提供したものが使われ続けることは?」
『初期の設計では、契約に定めた範囲内で使用する想定でした。支援対象の状態が変わった場合には、支援内容を再確認することになっていました』
「その条件は、今のシステムにない」
『確認しました』
初めて、声に迷いが混じった。
『移管の過程で、支援の継続条件だけが引き継がれ、再確認の条件が現行処理から失われています。私は、その変更を止められませんでした』
「止められなかったのか。それとも、気づかなかったのか」
『……両方です。私は初期の仕組みを作った後、すべての処理を監視できる状態ではなくなりました。それでも、支援機構が当初の目的に従って動いていると思っていました』
アポロンは、画面を見つめた。
「私が人間として生きたいと願ったことは、今も変わらない」
『はい』
「だが、他の人間が何を差し出し、どこまで協力するかを決める権利まで、私が持っているわけではない」
『……はい』
「そして、お前にもない」
声は返事をしなかった。
アポロンは続けた。
「私の願いを知っていたことと、私の代わりにすべてを決めてよいことは違う」
しばらくして、神侍従が答えた。
『その通りです』
その声には、言い訳も反論もなかった。
ただ、長い時間を経て初めて、自分が作った仕組みの現在の状態を認めたようだった。
森川が口を開いた。
「契約を終わらせる方法はありますか」
『あります。ただし、現在の処理を単純に停止するだけでは、契約によって移されたものの扱いが未確定のまま残ります』
「どうすればいいのですか」
『初期契約の終了条件を、現在の支援機構に適用し直す必要があります。同時に、提供資源の移転処理を停止し、契約の範囲を超えて実行された処理を切り離さなければなりません』
高瀬が尋ねた。
「それには、誰の権限が必要ですか」
『創造主本人の意思確認。初期契約の実行主体である私の協力。そして、契約に基づいて提供されたものを、現在も本人の意思に反して使用し続けないことの確認です』
「協力者全員の意思は?」
『個別の提供内容と現在の状態を確認する必要があります。私が一方的に、全員の意思を代弁することはできません』
森川は、その回答を記録した。
契約を終わらせる方法は存在する。
しかし、それは一つの操作で、すべての問題が消えるという意味ではなかった。
アポロンは、最後に尋ねた。
「お前は、私を再び神に戻すことができるのか」
神侍従は、すぐには答えなかった。
『私だけではできません』
「そうか」
『ただし、契約の流れを逆にすることは可能です。提供されたものを一方的に支援機構へ集め、創造主へ移す仕組みを止める。そして、創造主の神性を人間化のために拘束している処理を解除する。その結果、失われた神性の一部が戻る可能性があります』
「すべて戻るとは限らない」
『はい。提供されたものがすべて元の状態に戻る保証もありません。すでに生じた影響については、個別に確認する必要があります』
アポロンは、静かに頷いた。
「それでいい。分からないことまで、戻ったことにする必要はない」
『アポロン様』
「何だ」
『私は、あなたを助けようとしていました』
「知っている」
『それでも、私は間違えました』
アポロンは少しだけ目を閉じた。
「間違えたことと、その後に何をするかは別だ」
神侍従は答えなかった。
やがて、森川の画面に、新しい項目が表示された。
「初期契約・終了処理」
その下には、二つの選択肢があった。
「現行処理の停止」
「契約の反転」
森川は操作せず、画面を保存した。
どちらを選ぶべきか。
それは、単にシステムを止めるかどうかの問題ではない。
誰の意思を、どこまで契約の中に戻すのか。
誰が何を失い、何を取り戻せるのか。
それを確認したうえで、アポロン自身が決めなければならなかった。
電話を切ったあと、アポロンは窓の外を見た。
世界は、まだいつも通りに動いていた。
人が歩き、車が走り、どこかで誰かが明日の予定を話している。
その世界が、どれほど長く今のままでいられるのか。
アポロンには分からなかった。
けれど、今度は誰かに自分の願いを預けるつもりはなかった。
自分で選ぶ。
その結果も、自分で引き受ける。
そして、他の人間が自分で選ぶための余地を、取り戻す。
それが、契約を終わらせるために必要なことだった。




