第285章 願いを知る者
閲覧許可が下りたのは、翌日の午後だった。
森川、高瀬、山本は、指定された資料を確認するため、再び保管施設へ向かった。
「支援実行に関する説明資料」
その表紙には、初期契約と同じ管理番号が記されていた。
資料は数枚の紙で構成されていた。
最初のページには、支援を実行する目的が書かれていた。
創造主が人間として生きることを望んだ場合、その実現に必要な準備を行う。
続いて、実行主体の役割が記されていた。
神侍従は、創造主の願いを知る者として、支援の準備を進める。
そのために、必要な協力者を探し、契約を結び、支援機構を構築する。
高瀬は、最後の一文を読み直した。
「協力者を探し、契約を結ぶ……」
「契約書の内容と一致しますね」
森川が答えた。
資料には、協力者を選定する際の基準も記されていた。
創造主への信頼。
支援への協力意思。
契約に必要な条件を満たしていること。
しかし、条件を満たしていると判断した人物の記録は、別管理だった。
山本が次のページをめくった。
そこには、支援対象への説明について記載があった。
「支援の実行に必要な準備については、実行主体が管理する」
「支援対象への説明は、支援の進行を妨げない範囲で行う」
さらに、その下には、手書きの追記があった。
「詳細については、最終段階で説明する」
森川は、その文を撮影した。
「これまで見つかった記録とつながりますね」
「ええ。ただし、追記がいつ、誰によって行われたのかは確認が必要です」
高瀬は資料の末尾を確認した。
署名欄には、神侍従の役割印が残っていた。
個人名はない。
しかし、この資料が初期契約に付随していたことは、管理履歴から確認できた。
三人は記録を保存し、最後のページへ進んだ。
そこには、支援の終了について書かれていた。
「支援対象の人間化が完了した時点で、関連処理を終了する」
その下には、もう一つの記載があった。
「支援対象の状態変化が確認された場合、実行主体は支援内容を再確認する」
森川は、現行システムの設定を開いた。
現在の終了条件は、人間化の完了。
状態変化に応じて支援内容を再確認する条件は、見つからなかった。
初期資料には存在していた条件が、現行設定には反映されていない。
それがいつ起きたのか。
誰が変更したのか。
まだ分からなかった。
しかし、初期設定と現在の設定に違いがあることは、資料から確認できた。
山本は、机に並んだ記録を見た。
「神侍従は、アポロンさんの願いを知っていた。そして、その願いを実現するために、人間たちと契約を結んだ」
「そう考えるのが自然ですね」
森川は答えた。
「ただし、協力者に何を説明したのか、提供されるものの影響をどこまで理解していたのかは、まだ確認できていません」
高瀬が資料を閉じた。
「それに、最初の契約が現在の全体処理につながった経緯も残っています」
森川は頷いた。
調査の目的は、神侍従を責めることではない。
誰が何をしたのか。
何が契約に記されていたのか。
どの時点で、何が変わったのか。
その区別をつけることだった。
夕方、森川はアポロンに連絡した。
「神侍従が、あなたの願いを知る者として、支援の準備を進める役割だったことが確認できました」
アポロンは静かに聞いていた。
「人間たちと契約を結び、支援機構を構築したのも、その者だったようです」
「そうか」
「ただ、協力者に何を説明したのか、現在のシステムがなぜ当初の条件を反映していないのかは、まだ分かっていません」
「分かった。続けてくれ」
電話を切ったあと、アポロンはしばらく動かなかった。
神侍従。
自分の願いを知っていた者。
自分が何を望んでいるのか、何を失っているのか、誰よりも近くで見ていた者。
その者が、自分のために契約を結んだ。
そう考えると、記憶の奥に何かが触れた。
かつて、アポロンは神殿の窓辺に立っていた。
外には、人間たちの暮らしが見えた。
彼らは短い時間を生き、限られた知識で選び、間違え、やり直していた。
アポロンは、その姿を見ていた。
自分にはできないことがあると、初めて考えた頃だった。
そのとき、そばに誰かがいた。
「あなたも、あの者たちのように生きたいのですか」
そう尋ねられた気がした。
だが、声の主は思い出せない。
その後、何を答えたのかも分からなかった。
記憶はそこで途切れた。
アポロンは目を開けた。
思い出したのは、願いを持っていた頃の一場面だけだった。
契約を頼んだ記憶はない。
誰かに犠牲を求めた記憶もない。
それでも、自分の願いが、誰かの行動の出発点になった可能性はある。
美咲が帰宅したのは、それからしばらく後だった。
「何か思い出した?」
「少しだけ」
アポロンは、記憶の断片を話した。
美咲は黙って聞いていた。
「その人は、アポロンが人間になりたいと思っていたことを知っていたんだね」
「そうだと思う」
「でも、アポロンが何を頼んだのかは、まだ分からない」
「ああ」
美咲は鞄を置いた。
「だったら、そこは分からないままにしておいてもいいんじゃないかな。記録で確かめられることは調べて、思い出せないことは、思い出せないままにする」
アポロンは美咲を見た。
「それでいいのか」
「分からないことを、分かったことにするよりはいいと思う」
美咲は台所へ向かった。
「夕飯、温めるね」
アポロンは、その背中を見送った。
かつてなら、分からないことは埋めるべき空白だった。
今は、空白を無理に埋めることが、必ずしも答えにつながるわけではないと知っている。
しかし、契約によって何が起きたのかは、まだ確かめなければならない。
その結果が、自分の願いとどのようにつながっているのか。
そして、どうすれば契約を終わらせられるのか。
アポロンは、食卓に並べられた料理を見た。
その問いへの答えは、まだなかった。
けれど、今度は自分も、その答えを探す側にいるのだった。




