第283章 失われたもの
契約の原本が見つかった翌日、森川たちは別紙に記された参照番号を調べ始めた。
協力者が提供したもの。
その内容を記録したはずの資料。
そして、提供されたものがどのように支援対象へ移されたのか。
確認するべき項目は明確だった。
問題は、それぞれの記録が別の管理区分に分かれていることだった。
午前中、最初の照会結果が届いた。
参照番号の一部は、旧システムの移管一覧に存在していた。
しかし、現在の管理番号への変換記録はなかった。
別の番号は、共通処理資料の索引に残っていた。
その項目には、短い説明が付いていた。
「提供資源管理」
高瀬が画面を見た。
「これが、協力者から提供されたものを管理していた区分でしょうか」
「名称からは、そう考えられます。ただし、名称だけで内容までは確定できません」
森川は照会先を確認した。
「管理対象の定義と、個別記録の所在を分けて尋ねましょう」
山本が照会書を作成した。
午後になって、管理対象の定義に関する回答が届いた。
提供資源とは、契約に基づき、協力者から支援機構へ移されたものを指す。
提供の内容は、協力者ごとに異なる。
提供後の状態は、個別記録によって管理する。
その説明は、契約原本の記載と一致していた。
しかし、個別記録の所在については、別の部署への照会が必要だとされていた。
森川は回答を保存した。
少なくとも、契約に書かれていた提供は、単なる比喩ではなかった。
管理機構の中で、実際に扱われる対象だった。
それ以上のことは、まだ分からない。
三人は次の照会を送った。
その頃、アポロンは仕事を終え、健一と店の片付けをしていた。
「最近、帰りが遅いな」
健一が言った。
「調べていることがある」
「仕事のことか?」
「違う」
健一は、洗い終えた皿を棚に戻した。
「話せることなら聞くけど、無理には聞かないよ」
「ありがとう」
「それより、明日はいつもどおり来られるか?」
「来られる」
「ならいい」
健一はそれ以上尋ねなかった。
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
アポロンは歩きながら、契約のことを考えた。
かつての自分は、人間になりたいと願った。
その願いを知った者がいた。
そして、その者は人間たちと契約を結んだ。
だが、協力者が何を差し出したのか、彼は知らない。
自分が受け取ったものがあるのなら、それはどこから来たのか。
考えても、答えは出なかった。
家に着くと、美咲が食卓を整えていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日はどうだった?」
「契約に関する記録が少し見つかった」
アポロンは上着を脱ぎ、椅子に座った。
「協力者が提供したものを管理する区分があったらしい」
「何を提供したのかは?」
「まだ分からない」
美咲は料理を運んだ。
「アポロンは、何かを受け取った記憶がある?」
「ない」
「でも、何かを失った記憶は?」
アポロンは、すぐには答えなかった。
「神力が以前より弱くなったことは分かる。だが、それが契約によるものなのか、どのように起きたのかは、まだ分からない」
「そっか」
美咲は箸を並べた。
「じゃあ、今分かっていることと、まだ分からないことを分けて考えるしかないね」
「そうだな」
二人は夕食を食べ始めた。
しばらくして、美咲が言った。
「もし、その人たちがアポロンを助けようとしていたなら」
「うん」
「助けようとしたことと、実際に何が起きたかは、別の話なんだと思う」
アポロンは美咲を見た。
「誰かを助けたいと思っても、その人が何を望んでいるかを確かめなければ、違う結果になることもある」
美咲は、それ以上説明しなかった。
アポロンも、すぐに答えを返さなかった。
翌日、森川のもとに追加の回答が届いた。
個別の提供記録は、旧管理区分から共通処理資料へ移管されたことになっていた。
しかし、移管先の受領記録は確認できなかった。
さらに、移管一覧には、別の項目があった。
「提供資源の集約処理」
その実行主体は、個人名ではなく、共通処理識別子で記録されていた。
識別子は、四つの数字だった。
0000。
森川は、その番号を見つめた。
これまでの調査で、0000は共通照合や参照先の再設定、処理状態の更新に使われていた。
今度は、提供資源の集約処理にも記録されている。
高瀬が資料を並べた。
「同じ識別子が使われていることは確認できました。ただ、これだけで、すべてが同一の処理だったとは言えません」
「ええ。処理の定義と、実際に何を集約したのかを確認する必要があります」
山本が続けた。
「それから、個別の提供記録が見つからない理由もです」
森川は新たな照会を作成した。
今度は、単に資料の所在を尋ねるのではない。
提供資源がどのように集約され、どの記録に基づいて支援対象へ移されたのか。
その処理の起点を確認するためだった。
夕方、アポロンの携帯電話に森川から連絡が入った。
「提供資源の集約処理にも、0000が使われていたことが分かりました」
「つまり、私の人間化と関係している可能性があるのか」
「あります。ただ、提供されたものが実際にどのように使われたのかは、まだ確認できていません」
アポロンは静かに聞いていた。
「分かった。続けてくれ」
電話を切ったあと、彼は自分の手を見た。
今の身体には、温度がある。
疲れもある。
食べなければ空腹になる。
かつての自分には必要のなかった感覚が、今は当たり前に存在している。
その変化が、誰かの失ったものによって支えられていたのだとしたら。
アポロンは、手を握りしめた。
まだ、確かなことは何も分からない。
それでも、一つだけはっきりしていた。
自分が何を望んだかということと、その願いをかなえるために誰かが何を失ったかということは、同じ問いではなかった。
彼は携帯電話を置き、明日の仕事の準備を始めた。
答えを知るためには、もう少し時間が必要だった。




