第280章 約束の始まり
森川が見つけた資料は、薄い封筒に入っていた。
表紙には、古い管理番号と短い記載がある。
「創造主の人間化支援に関する初期記録」
高瀬は封筒を開き、中の書類を一枚ずつ机に並べた。
最初の数枚は、すでに確認した記録と大きく変わらなかった。
支援の目的。
関連記録の照合。
別管理への移管。
そして、現在も見つかっていない原本。
しかし、最後の一枚だけは違った。
紙の端が折れ、下部には古い手書きの追記が残っていた。
「支援対象本人の意思が変化した場合、支援内容を再確認すること」
森川が読み上げた。
「これが、初期の運用条件だったようです」
高瀬は、その下を確認した。
「ただし、誰が書いたのかは分からない。正式な承認欄も空白です」
「後から追記された可能性もありますね」
山本が言った。
「ええ。これだけで、当初から正式な条件だったとは断定できません」
森川は記録の撮影を終え、原本を元の位置に戻した。
「ほかの資料と照合しましょう」
その日の午後、三人は旧管理記録と現行の処理履歴を並べた。
初期記録には、支援対象の意思が変化した場合、内容を再確認するとある。
ところが、現行システムでは、意思の変化を確認する手順そのものが見当たらなかった。
代わりに残されているのは、同じ文言だった。
「本人意思確認:完了」
その後に続く処理も、変わっていない。
「支援目標:人間化の完了」
「処理状態:実行中」
高瀬は二つの記録を見比べた。
「初期条件がなくなったのか、それとも参照されなくなったのか」
「現時点では分かりません」
森川は答えた。
「ただ、本人の意思を再確認する条件が、現在の処理に反映されていないことは確認できます」
山本が古い手順書を閉じた。
「なら、そこから先を確認する必要がありますね」
その頃、アポロンは美咲と一緒に夕食を作っていた。
「醤油、取ってくれる?」
「これか?」
「それはソース」
アポロンは瓶の表示を見た。
「似ている」
「色は似てるけどね」
美咲は笑いながら、正しい瓶を指さした。
アポロンはそれを渡した。
以前なら、間違える前にすべてを知ることができた。
今は、間違えたあとで確かめることがある。
その違いを、彼はもう不快だとは思わなかった。
食事を終えた頃、携帯電話が鳴った。
森川からだった。
「アポロンさん、初期記録が一部見つかりました」
「何が書かれていた?」
「支援対象の意思が変化した場合、支援内容を再確認するという記載です。ただし、正式な承認記録はありません」
アポロンは黙って聞いていた。
「現在のシステムでは、その確認手順が見当たりません。処理がなぜ継続しているのか、まだ説明できる段階ではありません」
「そうか」
「それと、ひとつ確認させてください。あなたは、以前、人間になりたいと思っていたのですね」
「そうだ」
「その願いを、誰かに伝えた記憶はありますか」
アポロンは目を閉じた。
長い時間を生きた。
多くの者が、自分のそばにいた。
その中には、彼の願いを知っていた者もいたはずだった。
しかし、誰が、いつ、何を約束したのか。
記憶をたどっても、確かな形にはならなかった。
「願いを知っていた者はいたと思う」
「その人物が、支援の仕組みを作った可能性は?」
「否定できない」
「本人の同意があったかどうかは?」
「分からない」
森川は、すぐには答えなかった。
「分かりました。確認できる事実と、推測を分けて調べます」
「頼む」
電話が切れた。
美咲は、鍋を洗いながら尋ねた。
「何か分かった?」
「最初の約束に、意思が変わった場合の確認が必要だと書かれていたらしい」
「でも、今は確認されていない?」
「そうらしい」
美咲は水を止めた。
「じゃあ、誰かが忘れたのかな」
「忘れたのか、別の理由で使われなくなったのか。それはまだ分からない」
「そっか」
美咲は布巾で手を拭いた。
「アポロンは、今どうしたいの?」
質問は短かった。
記録の所在でも、昔の契約でもない。
今の自分についてだった。
アポロンは少し考えた。
「人間化の処理を止めたい」
「うん」
「私の願いのために、他の人間の意思が確認されなくなるのは望んでいない」
美咲は頷いた。
「それを、ちゃんと伝えたんだよね」
「伝えた」
「なら、今はその意思がどう扱われるかを確認していこう」
美咲はそれ以上、何かを決めつけなかった。
アポロンも、答えを急がなかった。
翌朝、森川たちは新たな照会を行った。
初期記録にある意思確認の手順と、現在の処理条件を照合するためだった。
しばらくして、画面に結果が表示された。
「旧条件:参照対象外」
その下には、理由がなかった。
さらに、別の項目が続いた。
「現行処理:継続」
森川は画面を保存した。
旧条件が、いつ、誰によって参照対象から外されたのか。
それは、まだ分からない。
けれど、初期の記録と現在の処理が異なっていることは、ひとつの事実として残った。
森川は新しい照会書を作成した。
今度は、処理の履歴だけではない。
条件が適用されなくなった時点と、その根拠を確認するための照会だった。
机の端には、アポロンが提出した意思表示の記録が置かれていた。
「支援終了の意思:明確に希望する」
その記録は、今も有効だった。
システムが何を表示していても、アポロンの意思が変わったわけではない。
そして、その意思を確認しないまま処理を続けてよいという根拠も、まだ見つかっていなかった。
森川は照会書を保存し、担当部署への送信手続きを始めた。
画面には、送信先の確認欄が表示されていた。
今度は、送信先が確定するまで、完了にはしなかった。




