第279章 最後の承認
朝、森川は旧システムの初期設定記録を開いた。
設定者の識別番号は、現在の人物情報には登録されていない。
しかし、関連する作業履歴をたどると、初期設定の直後に、別の管理領域へ記録が移された形跡があった。
高瀬が画面を指した。
「この時点で、設定者の情報が別管理に移されています」
「移管先は分かるか」
「管理領域の番号は残っています。ただし、現在の区分には対応する番号がありません」
森川は、記録を確認した。
「移管が実際に完了したことを示す受領記録は?」
「見つかっていません」
「では、移管されたと断定せず、移管処理の記録があると書いておこう」
高瀬は頷いた。
森川は、初期設定から現在までの履歴を並べた。
設定者の識別番号。
初期設定への関与。
別管理への移管処理。
最終確認の記録なし。
目標変更の承認権限。
それぞれは記録に残っている。
しかし、それらをつなぐ記録が欠けていた。
*
午前十時、アポロンは森川たちのもとを訪れた。
「設定者について、新しい情報はありましたか」
森川は、確認できた内容を説明した。
「初期設定に関係する識別番号と、別管理への移管処理の記録が見つかりました。ただし、設定者の人物情報も、実際の受領記録も確認できていません」
「では、誰が設定したのかは、まだ分からないのですね」
「はい」
アポロンは、資料を見つめた。
「私のそばにいた者が関係している可能性はあります。ただ、それを事実として扱うことはできません」
森川は頷いた。
「その通りです。あなたの記憶は手がかりとして記録しますが、識別番号との対応は別に確認します」
アポロンは、静かに息を吐いた。
自分の過去について、思い出せることは限られている。
思い出したことを、そのまま確定した事実にすることもできない。
今の自分にできるのは、分かっていることと、分からないことを区別することだった。
*
昼前、高瀬が新しい資料を見つけた。
旧システムの構成変更時に作成された、目標変更に関する確認票だった。
そこには、次の項目があった。
『目標変更申請:受付可能』
『設定者承認:必要』
『設定者不在時の代替承認:規定なし』
森川は、最後の一文を読み直した。
「設定者が確認できない場合の手順がない」
高瀬が言った。
「はい。少なくとも、この確認票には記載されていません」
「現在のシステムにも、同じ条件が残っているのか確認しよう」
照会を送ると、しばらくして回答が届いた。
『目標変更権限:設定者承認を要求』
『代替承認権限:登録なし』
森川は、画面を保存した。
これで、現在の処理が目標変更を受け付けない理由の一つが見えてきた。
設定者の承認を要求している。
しかし、設定者が誰なのか分からない。
代わりに承認する権限も登録されていない。
本人が終了を求めても、目標を変更するための手順が、そこで止まっている可能性があった。
*
午後一時。
アポロンは、確認票を読み終えた。
「設定者が見つからなければ、私の意思では変更できないのでしょうか」
森川は答えた。
「現在の設定では、そのように見えます。ただし、設定を変更する別の手段が存在しないとまでは、まだ確認できていません」
「分かりました」
アポロンは少し考えた。
「では、私の意思を記録することと、処理を止めることは、別々に進める必要がありますね」
「はい。意思表示の記録はすでに存在しています。次に必要なのは、目標変更の権限と、その手順の確認です」
アポロンは頷いた。
「私が人間になりたいと望んだことは、今でも否定しません」
森川は、彼の言葉を聞いていた。
「ですが、その願いを理由に、他の人間の意思を無視する仕組みを続けることは望みません。そこは、はっきりさせておきたいのです」
「記録します」
森川は、現在の意思表示に追記した。
過去の願いを否定することと、現在の処理を拒否することは、同じではなかった。
*
午後三時、五〇二号室の住人は、山本との面談を終えた。
彼女の記録の所在は、まだ確認できていなかった。
しかし、現在の希望については、調査記録に残されている。
「私が過去に何を考えていたのか、今は分かりません」
住人は言った。
「でも、今、何を望んでいるかは分かります」
山本は頷いた。
「記録の所在を知りたい。内容を確認するかどうかは、自分で決めたい。その二点ですね」
「はい」
「そのまま記録します」
住人は、机の上の書類をまとめた。
「過去のことが分かったら、また考えます。今、決められないことまで決めたことにしないでください」
「分かりました」
面談が終わると、山本は記録を保存した。
現在の意思は、現在の意思として残された。
過去の記録が見つかるまで、彼女が何かを選ぶ必要はなかった。
*
夕方、森川の端末に、共通照合処理の新しい履歴が届いた。
『目標変更申請:受付可能』
『設定者承認:未確認』
『代替承認権限:登録なし』
『関連対象処理:継続』
森川は、高瀬と画面を確認した。
「申請を受け付ける仕組みは残っている。だが、承認する者が確認できない」
「このままでは、終了要求が保留され続ける可能性があります」
「そうだな。ただし、今の段階で、永久に変更できないとまでは言えない」
森川は、設定者の識別番号と、別管理の番号を改めて照会した。
回答はなかった。
*
夜、アポロンは美咲と夕食を食べていた。
美咲は、今日の仕事であったことを話していた。
同僚が急に休み、予定していた作業の順番を変えたという。
「最初に決めた通りにはいかなかったけど、何とか終わったよ」
「予定を変えたのか」
「うん。そのままだと、誰かに無理をさせることになりそうだったから」
アポロンは頷いた。
「それは、最初の予定を守ることよりも、今の状況を見て決めたということか」
「そうだね。最初の予定が間違っていたわけじゃないけど、状況が変わったから」
美咲は、食器を手に取った。
「決めたことでも、変えたほうがいい時はあるよ」
アポロンは、その言葉を覚えておこうと思った。
かつて誰かが、自分の願いをかなえるために、何かを決めたのかもしれない。
その時は、必要だと考えたのだろう。
しかし、今の状況が変わっているのなら、現在の意思を確かめる必要がある。
過去に決めたことを、いつまでも変えられないものとして扱う必要はなかった。
*
深夜。
森川は、最後に届いた照会結果を確認していた。
設定者の人物情報は見つからない。
別管理への移管処理は記録されているが、受領記録はない。
代替承認権限は登録されていない。
森川は、調査記録に追記した。
『目標変更に設定者の承認が必要であることを確認。設定者の所在および代替承認手順は未確認』
保存を終えた時、画面が更新された。
『人間化処理:実行中』
『終了要求:保留継続』
『次回処理:継続』
森川は、その表示を見つめた。
本人は終了を求めている。
旧資料にも、本人の意思によって支援を終了する手順が残っている。
それでも、現在の処理は、設定者の承認を待ち続けている。
彼らが探しているのは、失われた名前だけではなかった。
誰かが始めた処理を、誰が終わらせることができるのか。
その権限が失われた時、本人の意思はどこまで届くのか。
そして、過去に始められた約束を、現在の人間が終わらせることはできるのか。
まだ、答えはなかった。




