第278章 願いの終わり
朝、森川は昨日の終了要求に関する記録を読み直していた。
本人の意思は確認された。
終了権限も照合された。
それでも、処理は保留された。
理由は、人間化の完了条件が満たされていないことだった。
森川は高瀬に尋ねた。
「この目標を変更する権限は、どこにある?」
「現在の管理資料には、変更権限の所在が記載されていません。ただ、旧システムの構成資料に、目標設定に関する項目が残っています」
「見せてくれ」
高瀬が画面を開いた。
そこには、短い記載があった。
『支援目標の変更:設定者の承認を要する』
その下には、設定者の識別番号が記されていた。
森川は、番号を照会した。
結果は、すぐには返ってこなかった。
「設定者の情報が、現在の管理区分に存在しない可能性があります」
高瀬が言った。
森川は頷いた。
「確認できないことと、存在しないことは別だ。旧資料も含めて探そう」
*
午前十時。
アポロンは、森川から送られてきた資料を確認していた。
『支援目標の変更:設定者の承認を要する』
彼は、その文章を何度も読み返した。
設定者。
その言葉から、古い記憶が浮かび上がった。
彼のそばにいた者。
長い時間を共に過ごし、彼の言葉を聞き、彼が人間の世界を眺めている理由を知っていた者。
その者は、かつて彼に尋ねたことがあった。
人間になれたなら、何をしたいのか。
アポロンは、その時、答えた。
人間と同じ時間を生きてみたい。
限られた時間の中で、何かを選び、その結果を受け取りたい。
明日が分からないということを、実際に経験してみたい。
それが、彼の願いだった。
しかし、その願いをかなえるために、何をしてよいと答えたわけでもなかった。
アポロンは、森川に電話をかけた。
「設定者について、何か分かりましたか」
「現在、識別番号を照会しています。まだ回答はありません」
「分かりました。私も、過去の記憶を確認しています」
「何か思い出しましたか」
「私の願いを知っていた者がいました。その者が設定者だったのかもしれません。ただ、今は確かめられません」
森川は答えた。
「では、記憶と確認済みの事実を分けて記録します」
「お願いします」
*
昼過ぎ、高瀬が照会結果を持ってきた。
設定者の識別番号は、現在の人物情報には対応していなかった。
ただし、旧システムの管理記録には、その番号が『創造主支援計画』の初期設定に使われたことが残っていた。
森川は資料を確認した。
「この番号が、最初の設定者に関係している可能性は高い。ただし、実際に誰が操作したのかまでは分からない」
「初期設定の変更履歴も、一部しか残っていません」
高瀬は、別の画面を開いた。
『支援目標:創造主の人間化』
『目標状態:人間化の完了』
『目標変更:設定者の承認を要する』
そして、その下に、別の項目があった。
『設定者による最終確認:記録なし』
森川は、画面を見つめた。
「設定者が最後に確認した記録がない」
「はい」
「ならば、目標が現在の形になった経緯も、確定できないな」
「その通りです」
森川は、すべての項目を保存した。
*
午後三時。
アポロンは、旧資料の記載を確認した。
目標変更には、設定者の承認が必要。
しかし、その設定者が誰なのかは分からない。
最終確認の記録もない。
彼は、森川に尋ねた。
「設定者が確認できなければ、目標は変更できないのでしょうか」
「現行の仕組みでは、その可能性があります。ただし、変更手順そのものが現在も有効なのか、まだ確認できていません」
「そうですか」
アポロンは少し考えた。
「では、私が設定者だった場合はどうなりますか」
森川は答えた。
「その場合でも、権限の有効性を確認する必要があります。現在のあなたの意思表示だけで、旧システムの設定を変更できるとは限りません」
「分かりました」
アポロンは、目を閉じた。
かつての自分は、神だった。
世界の始まりも、終わりも、知ることができた。
しかし、今は、過去の自分が何を約束したのかさえ、すべては思い出せない。
それでも、自分が人間になりたいと望んだことは覚えている。
そして、今の自分は、その願いをかなえるために他の人間が犠牲になることを望んでいない。
それは、確かなことだった。
*
夕方、五〇二号室の住人は、山本からの連絡を受けた。
「現在、共通照合処理の目的について、調査が進んでいます。ただし、あなたの記録がその処理にどう関係しているかは、まだ確認できていません」
「分かりました」
彼女は、しばらく黙っていた。
「一つ、確認したいことがあります」
「はい」
「過去の記録に、私が何かに同意したと書かれていた場合、それだけで、今の私の意思が決まるわけではありませんよね」
山本は答えた。
「過去の記録と、現在の意思は分けて確認します。過去に何が記録されているかという問題と、現在あなたが何を望んでいるかという問題は、同じではありません」
「それなら、安心しました」
通話を終えた後、彼女は机の上に置いていた封筒を開いた。
以前、山本から渡された資料の控えだった。
彼女は、記録の所在を知りたいという自分の希望が、そこに記載されていることを確かめた。
内容を読むかどうかは、まだ決めていない。
今は、それでよかった。
*
夜。
アポロンは、森川から届いた資料をもう一度開いた。
『支援目標:創造主の人間化』
『目標変更:設定者の承認を要する』
彼は、しばらく考えた。
自分が人間になりたいと望んだこと。
その願いをかなえようとした者がいたこと。
その者が、何らかの仕組みを作ったこと。
そこまでは、少しずつつながり始めていた。
しかし、最初の約束が何だったのか。
誰が、何を理解して同意したのか。
どこから、本人の意思を確認しない処理に変わったのか。
まだ分からなかった。
アポロンは、森川にメッセージを送った。
『私が人間になりたいと望んだことは事実です。しかし、その願いをかなえるために、どのような処理が必要だと決めたのかは分かりません。設定者と、目標の変更手順を引き続き確認してください』
送信後、彼は端末を置いた。
願いは、自分のものだった。
しかし、その願いをかなえる方法まで、誰かに任せた覚えはなかった。
そして、たとえ過去に任せていたとしても、現在の自分が望まないと伝えることはできるはずだった。
*
深夜。
森川は、初期設定の記録を保存していた。
設定者の識別番号は確認できた。
初期設定への関与も確認できた。
しかし、現在の人物情報はなく、最終確認の記録も見つからなかった。
目標変更の権限が、現在も有効なのかも分からない。
森川は、調査記録に追記した。
『初期設定者の識別番号を確認。人物との対応、最終確認の有無、現行の変更権限については未確認』
保存を終えた時、画面が更新された。
『人間化処理:最終段階』
『支援目標:変更なし』
『関連対象処理:継続』
森川は、その表示を見つめた。
目標は変わっていない。
本人は終了を求めている。
それでも、仕組みは動き続けている。
その目標を変更するには、誰かの承認が必要だと記録されている。
しかし、その誰かが、今どこにいるのかは分からなかった。
森川は、明日の調査予定に、設定者の特定と目標変更手順の確認を追加した。
彼らが探しているのは、単に過去の人物の名前ではなかった。
誰かの願いが、いつ、どのようにして、本人の意思さえ止められない仕組みになったのか。
その境目を、確かめる必要があった。




