第276章 明日の向こう側
朝。
アポロンは、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外から、電車の走る音が聞こえる。
以前なら、どこへ向かう電車なのか、乗っている人間が何を考えているのかまで知ることができた。
今は、音が聞こえるだけだった。
彼は布団から起き上がり、窓を開けた。
冷たい空気が入ってくる。
世界は、昨日と同じように動いていた。
けれど、昨日まで動いていた仕組みが、今日も同じように動くとは限らない。
そのことを、彼はもう知っていた。
*
午前九時。
森川たちは、アポロンが提出した意思表示の記録を確認していた。
『支援継続に関する意思:継続を望まない』
『関連対象への処理:停止を求める』
本人の意思は、確かに受付記録に残っていた。
しかし、共通照合処理は停止していない。
高瀬が、処理履歴を確認した。
「意思表示の受付後、処理の継続判定が一度実行されています」
「その判定結果は?」
「継続です。ただし、判定に使われた条件の詳細は表示されていません」
森川は、記録を見た。
「本人が継続を望まないと伝えているのに、継続判定が行われた。その理由を確認しよう」
照会を送る。
しばらくして、回答が表示された。
『本人意思:確認済み』
『処理条件:変更なし』
森川は、画面を見つめた。
「意思は確認した。しかし、条件は変更していない」
高瀬が言った。
「確認することと、従うことが、別になっていますね」
「そのようだ」
森川は、これまでの記録を振り返った。
意思確認済み。
説明完了。
照会処理完了。
これらの表示は、実際に何が行われたかを、必ずしも示していなかった。
今回も同じだった。
本人の意思は記録された。
だが、その意思が処理に反映されたわけではなかった。
*
午前十一時、アポロンは森川たちのもとを訪れた。
森川は、現在の状況を説明した。
「あなたの意思表示は、受付記録として保存されています。ただし、システムは処理条件を変更していません」
「なぜですか」
「その理由を調べています。現在の記録では、意思確認が処理継続の条件に影響していないように見えます」
アポロンは、画面を見た。
『本人意思:確認済み』
『処理条件:変更なし』
彼は言った。
「私が望まないと伝えたことは、確認されています」
「はい」
「それでも、私の望まない処理が続いている」
森川は頷いた。
「現時点では、そうなっています」
アポロンはしばらく考えた。
「では、確認するだけでは足りないのですね」
「少なくとも、この仕組みでは、意思表示を受け付けることと、処理を停止することが別になっています」
「分かりました」
アポロンは、画面から目を離した。
「私が望んでいないことを、もう一度伝え続けるだけでは、終わらないのかもしれません」
森川は答えなかった。
彼らには、まだ停止方法が分かっていなかった。
*
午後一時。
高瀬が、旧システムの管理資料から新しい記録を見つけた。
『支援終了権限:設定先参照』
『設定先:別管理』
『現行管理区分への移管:未確認』
森川は、すぐに資料を確認した。
「終了権限の設定先が、別管理になっている」
「はい。ただし、その管理区分が現在も存在するのか、どの部署が管理しているのかは分かりません」
「移管記録は?」
「見つかっていません」
森川は、資料を保存した。
これまで、停止条件そのものが不明だった。
今度は、停止を実行する権限が、別の管理区分に置かれている可能性が見えてきた。
森川はアポロンに連絡した。
「支援終了権限について、別管理の設定先が記録されています。ただし、現在の管理先は確認できていません」
「そこに停止の権限があるのでしょうか」
「その可能性があります。ただし、設定先の実体も、権限の内容も、まだ確定していません」
アポロンは答えた。
「分かりました。調べてください」
*
午後三時。
五〇二号室の住人は、山本と面談していた。
机の上には、彼女の記録に関する資料が並んでいた。
「現在確認できているのは、あなたの旧記録に参照設定が存在していたことです。ただし、その設定を誰が行ったのか、どのような目的だったのかは、まだ確認できていません」
住人は資料を見た。
「私は、何かに同意したことになっているのでしょうか」
「その点も、現在の資料からは確認できません」
「分かりました」
彼女は、少し考えてから言った。
「では、同意したとも、同意していないとも、今は決められないということですね」
「はい。確認できていないことを、こちらで補うことはできません」
住人は頷いた。
「それでいいです。分からないことは、分からないまま記録してください」
山本は、その言葉を記録した。
彼女は、過去の自分について、何もかも分からなくてもよいと思っていた。
ただ、分からないことを、誰かの都合で決められたくなかった。
それは、彼女自身が今、選んでいることだった。
*
夕方。
アポロンは、共通照合処理の履歴を確認していた。
新しい通知は届いていなかった。
だが、処理状態は『実行中』のままだった。
彼は、端末の前に座った。
かつての自分なら、仕組みの内部をすべて知り、停止方法を探し出すことができたかもしれない。
しかし、今の彼には、分からないことが多かった。
記録の所在。
権限の設定先。
合意の原本。
そして、かつて自分のために約束を交わした者の名前。
彼は、すべてを一度に取り戻すことはできなかった。
それでも、分からないことを理由に、他の人間の生活を差し出すつもりはなかった。
森川から、短い連絡が届いた。
『別管理の設定先について、引き続き確認しています。新しい情報があれば連絡します』
アポロンは返信した。
『お願いします』
それだけだった。
*
夜。
美咲が帰宅すると、アポロンは夕食の準備をしていた。
「今日は何を作るの?」
「野菜と肉を炒める」
「いいね。手伝おうか?」
「皿を出してくれると助かる」
美咲は食器棚を開けた。
二人で食卓を整える。
食事を始めてしばらくして、美咲が言った。
「明日、仕事のシフトを決めることにした」
「増やすのか?」
「まだ分からない。今の予定と、来月の予定を比べてから決める」
「そうか」
「決めたら、また教えるね」
「分かった」
アポロンは、彼女の言葉を聞いていた。
明日のことは、まだ決まっていない。
美咲は、自分で考えて決めるつもりだった。
彼は、その答えを先に知ろうとは思わなかった。
*
深夜。
森川は、別管理の設定先について、これまでの照会結果を整理していた。
設定先の番号は残っている。
しかし、現在の管理区分には対応する番号がない。
移管記録も、管理責任者の記録も見つかっていない。
それでも、共通照合処理は動き続けていた。
森川は、新しい照会を登録した。
『支援終了権限の現在の所在を確認する』
送信すると、受付番号が表示された。
『照会受付:完了』
その下には、いつもの表示があった。
『共通照合処理:実行中』
森川は、画面を閉じた。
まだ終わっていない。
停止の方法も、約束の全容も、分からないままだった。
だが、彼らが確かめなければならないことは、少しずつ明確になっていた。
誰が、何を約束したのか。
その約束は、どこまでのことを認めていたのか。
そして、今を生きている人間が、その約束を拒否することはできるのか。
森川は、明日の調査予定を保存した。
明日になれば、答えが見つかるとは限らない。
それでも、確かめることをやめる理由にはならなかった。




