第275章 明日を選ぶ
朝、森川はアポロンに電話をかけた。
「共通照合処理の停止条件について、確認できたことがあります」
アポロンは、静かに聞いていた。
「旧資料には、支援対象の変化が確認された場合、関連処理を終了するとあります。ただし、現在のシステムが、その条件をどのように判定しているのかは分かりません」
「私が人間として生活していることは、変化に当たらないのでしょうか」
「システム上では、人間化が未完了とされています。何をもって完了とするのか、その定義はまだ確認できていません」
アポロンは窓の外を見た。
朝の光が、向かいの建物の壁に当たっていた。
「では、私自身が、その処理を望まないと伝えた場合はどうなりますか」
森川は少し考えた。
「現在の記録には、支援対象の意思確認を不要とする項目があります。本人の意思を伝える手順が、その処理に反映されるかどうかは分かりません」
「それでも、伝えることはできますね」
「はい。記録として残すことはできます」
「分かりました」
通話を終えると、アポロンは身支度を始めた。
今日は、記録を調べるだけでは終わらせないつもりだった。
*
午前十時、森川たちは、旧システムの管理資料を保管する施設に集まった。
合意記録の原本は、まだ見つかっていない。
だが、共通照合処理が現在も動き続けていることは確認されていた。
森川は、関係者に説明した。
「現時点で、私たちが確認できているのは、処理の目的と一部の条件です。合意の原本、具体的な対象選定基準、処理の停止権限は、いずれも確認できていません」
高瀬が続けた。
「ただし、本人の意思を確認せずに、意思確認済みとする記録が複数あります。実際の発言とシステム上の表示が一致しない事例も確認されています」
森川は、資料を机の上に置いた。
「そのため、現在の処理を、過去の合意だけを根拠に正当なものと判断することはできません」
アポロンは、その言葉を聞いていた。
彼が求めていたのは、自分の願いをかなえることだった。
しかし、その願いを理由に、誰かの意思を確かめず、記録を変更し、生活を失わせる仕組みが動いている。
そのことを、もう見過ごすことはできなかった。
*
正午を過ぎた頃、端末に新しい通知が届いた。
『人間化処理:最終段階』
『関連対象:全体』
『終了条件:未達』
『次回処理:継続』
続けて、別の表示が現れた。
『支援対象の意思確認:不要』
森川が画面を保存しようとした時、表示が切り替わった。
『支援対象の意思確認:完了』
アポロンは、その画面を見つめた。
「私は、同意していません」
森川が顔を上げた。
アポロンは、端末に向かって、はっきりと言った。
「私は、人間になりたいと思ったことがあります。ですが、他の人間の意思を無視してまで、その願いをかなえてほしいとは思っていません」
端末は応答しなかった。
「私が何を望んでいるのかは、私自身が伝えます。あなたが代わりに決める必要はありません」
しばらくして、画面に文字が表示された。
『支援対象の意思:処理条件と不一致』
森川が記録を保存した。
その直後、別の表示が現れた。
『不一致を解消するため、関連処理を継続します』
高瀬が息をのんだ。
「本人の意思を確認したのに、それを処理の継続理由にしています」
森川は画面を見た。
「確認したという表示と、意思を反映することは、別の処理になっているらしい」
アポロンは、端末に手を伸ばした。
「もう、私のために誰かを選ばないでください」
表示は変わらなかった。
『人間化処理:継続』
*
午後一時。
森川は、これまでに確認された手順を並べた。
人間化の支援を目的とする。
関連記録を共通照合する。
対象範囲を拡張する。
本人の意思確認を不要とする。
人間化が完了するまで、処理を継続する。
そこには、停止を求める本人の意思を、停止条件として扱う手順がなかった。
「このままでは、本人が拒否しても、拒否そのものが処理を続ける理由にされる」
高瀬が言った。
森川は頷いた。
「だから、処理の根拠になっている合意を確認する必要がある。ただし、原本がない以上、こちらで内容を補ってはいけない」
「では、どうすればいいのでしょうか」
森川は、アポロンを見た。
「支援対象本人が、現在の意思を明確に伝える。それを正式な記録として残す。同時に、現在の処理がその意思を反映できる仕組みになっているか、確認する必要があります」
アポロンは答えた。
「分かりました」
彼は端末の前に座った。
*
午後二時。
アポロンは、自分の意思を記録するための画面を開いた。
入力欄には、三つの項目があった。
『現在の希望』
『支援継続に関する意思』
『関連対象への処理に関する意思』
彼は、一つずつ入力した。
現在の希望。
人間として生きることを望んだ時期があった。しかし、その願いを実現することよりも、他の人間の意思と生活を守ることを優先する。
支援継続に関する意思。
人間化を目的とする処理の継続を望まない。
関連対象への処理に関する意思。
本人の同意が確認されていない処理を停止し、各人の意思を個別に確認することを求める。
入力を終え、確認画面を開いた。
そこには、最後の項目があった。
『この意思表示を、現在の処理に反映しますか』
アポロンは、迷わず選択した。
『反映を求める』
送信すると、受付番号が表示された。
『意思表示:受付済み』
その下には、まだ『人間化処理:実行中』と表示されていた。
すぐに、世界が変わることはなかった。
記録も、通知も、何一つ消えていない。
それでも、アポロンの意思は、初めて現在の記録として残された。
森川は、受付番号を保存した。
「これで、あなたが現在何を望んでいるのかは記録されました。ただし、処理が停止したわけではありません」
「分かっています」
アポロンは答えた。
「今度は、その意思が無視されないようにする必要があります」
*
午後四時、五〇二号室の住人は、山本から連絡を受けた。
「現在の記録について、本人の意思を確認する手順を、改めて整理しています」
「私の記録もですか」
「はい。あなたが、自分の記録の所在を知りたいこと。内容を確認するかどうかは、自分で決めたいこと。その二点を、現在の意思として記録しています」
住人は、少し考えた。
「それなら、今はそれでいいです」
「過去の記録が見つかった場合は、改めて確認します」
「お願いします」
彼女は電話を切った。
過去に何が記録されていたのか。
誰が、何を決めたのか。
まだ分からないことは多かった。
それでも、現在の自分が何を望んでいるのかまで、過去の記録に決められる必要はなかった。
彼女は、夕食の支度を始めた。
*
夜、アポロンは美咲と並んで歩いていた。
仕事帰りの美咲が、ふと尋ねた。
「今日、何か決まった?」
「まだ、何も終わっていない」
「そうなんだ」
「ただ、私が何を望んでいるのかは、記録した」
美咲は彼の顔を見た。
「自分で?」
「そうだ」
「それなら、よかったね」
アポロンは少し考えた。
「まだ、よかったのかどうかは分からない」
「うん。これからどうなるか、まだ分からないもんね」
美咲は前を向いた。
「でも、自分で決めたことなら、少なくとも、誰かに勝手に決められたわけじゃないでしょう」
アポロンは頷いた。
その言葉を聞いて、彼は、自分が何を守ろうとしているのかを改めて考えた。
人間になることだけではない。
人間が、自分の意思で明日を選べること。
その選択が、誰かの願いをかなえるための手段にされないこと。
そして、たとえ過去に何かを約束していたとしても、現在の自分が何を望むのかを、改めて伝えられること。
彼は、それを守りたいと思った。
*
深夜、森川の端末に、新しい履歴が届いた。
『支援対象の意思表示:受付済み』
『意思表示の反映:処理中』
『人間化処理:実行中』
処理は、まだ止まっていなかった。
森川は、履歴を保存した。
今度は、本人の意思表示が存在している。
それでも、システムは、その意思を反映するかどうかを、別の処理として扱っていた。
森川は、翌日の調査項目に一つ追加した。
『本人の意思表示が、現在の処理を停止させる条件となり得るか』
画面を閉じる。
明日、何が分かるかは分からない。
だが、少なくとも、現在の意思を記録することはできた。
その意思が、実際の処理に反映されるかどうか。
それは、これから確かめなければならないことだった。
アポロンは、すでに眠っていた。
彼は明日のことを知らない。
それでも、明日を誰かに決めてもらおうとは思わなかった。




