第274章 約束の代償
朝、森川は旧システムの資料を確認していた。
前日に見つかった引き継ぎ文書には、本人への説明を行わないという記載があった。
しかし、その判断が誰によるものだったのかは分からない。
森川は、関連する承認記録を探していた。
午前八時過ぎ、高瀬が一つの資料を持ってきた。
「合意記録の原本ではありませんが、当時の処理手順を記した文書が見つかりました」
森川は資料を受け取った。
そこには、共通照合処理の開始条件が記されていた。
『支援対象の人間化が未完了である場合、関連記録の照合を継続する』
その下に、別の項目があった。
『支援対象の状態変化を妨げる要因については、関連対象の記録を参照し、必要な処理を行う』
森川は、二つの文章を並べて見た。
「妨げる要因とは、何を指しているんだ」
高瀬は首を横に振った。
「定義がありません。対象を選定する具体的な条件も、記載されていません」
「必要な処理というのも曖昧だな」
「はい」
森川は資料を保存した。
この文書から、共通照合処理が何を目的として動いているのか、その一部は説明できるようになった。
人間化が完了していないため、処理を継続する。
その過程で、関連する記録を参照する。
しかし、なぜ人間化が完了していないのか。
何が妨げる要因と判断されるのか。
そして、必要な処理とは何なのか。
肝心な部分は、依然として分からなかった。
*
午前十時、アポロンは森川のもとを訪れた。
森川は、見つかった文書を見せた。
アポロンは、二つの項目を読み終えた。
「人間化が完了していないから、処理を続ける」
「そのように読めます。ただし、実際の処理がこの手順だけで動いているのかは分かりません」
「関連する記録を参照し、必要な処理を行う。その対象が全体になっている」
「はい」
アポロンは、少し考えた。
「私が人間になりたいと思ったことは、誰かにとって、処理を始める理由になったのかもしれません」
森川は記録を取った。
「ただし、それだけでは、現在の対象範囲が適切だとは判断できません」
「そうです。私は、自分が人間になることを望んだ。ですが、他の人間が何を望んでいるのかまで、私の願いから決められるわけではありません」
森川は頷いた。
「その点は、これまでの記録とも照合します」
アポロンは続けた。
「そして、私が人間になることを望んだとしても、そのために誰かの記録や記憶を失わせることまで、私は望んでいません」
森川は、その言葉も記録した。
*
昼過ぎ、情報管理部門から追加の回答が届いた。
共通照合処理に関連する旧記録の一部に、状態変化を記録するための項目が存在していたという。
その項目には、次のように記されていた。
『支援対象の変化:未確認』
『関連対象の処理:継続』
森川は、記録の日時を確認した。
人間化の完了が確認されていない状態で、関連対象の処理だけが継続している。
これまでの履歴と、矛盾していなかった。
しかし、関連対象が何を意味するのかは、依然として分からない。
森川は高瀬に尋ねた。
「関連対象の一覧はあるか」
「一部の識別番号はあります。ただし、人物情報と対応していない番号が多く、全体の一覧も見つかっていません」
「その番号が、実際に人間を指していると確認できるか」
「現時点では、すべてを確認できていません」
森川は、番号を一つずつ保存した。
名前が分からない。
どの記録に対応するのかも分からない。
それでも、処理の履歴には、対象として扱われたことが残っていた。
彼は報告書に追記した。
『関連対象の識別番号を確認。対象の実体、選定基準および処理内容については未確認』
*
午後三時、五〇二号室の住人から、山本へ連絡が入った。
「私の記録について、何か分かりましたか」
山本は、現在確認できている内容を説明した。
「関連する識別番号は見つかっています。ただし、その番号があなたの記録とどのように結びついているのか、まだ確認できていません」
「私の記録が、誰かの人間化に関係しているということですか」
「現時点では、そこまでの関係は確認できていません」
住人は、しばらく黙っていた。
「分かりました。では、私が関係していると決めつけないでください」
「はい」
「それから、関係があると分かった場合も、私が何かに同意したことにしないでください」
山本は、その言葉を記録した。
「分かりました。関係の有無と、本人の意思は、別々に確認します」
通話が終わった。
山本は、森川に報告した。
森川は、本人の発言を調査記録に追加した。
関連対象である可能性。
実際に関係しているという事実。
そして、本人が同意したかどうか。
それらは、同じ項目ではなかった。
*
夕方、森川は、旧システムの管理資料をさらに確認していた。
そこで、一つの記載が見つかった。
『支援対象の変化が確認された場合、関連処理を終了する』
森川は、すぐに高瀬へ画面を見せた。
「これが終了条件なのかもしれない」
高瀬は記載を読み直した。
「ただし、支援対象の変化とは、人間化の完了を指すのでしょうか」
「前後の文脈からは、その可能性がある。だが、確定はできない」
「それに、現在の処理では、人間化の完了が確認されていません」
森川は頷いた。
処理を継続する条件と、処理を終了する条件。
その二つが、少しずつ見えてきた。
しかし、現在の仕組みは、人間化の完了を確認できていない。
だから、処理を続けている可能性がある。
森川は、アポロンに連絡した。
「終了条件に関する記載が見つかりました。支援対象の変化が確認された場合、関連処理を終了するとあります」
「人間化の完了を指している可能性がありますね」
「はい。ただし、現時点では確定できません」
アポロンは答えた。
「分かりました」
通話を終えた後、彼はしばらく考えた。
もし、仕組みが人間化の完了を待っているのなら。
その処理が終わらない限り、関連対象への処理も続くことになる。
だが、現在の自分は、すでに人間として生活している。
食事をし、眠り、働き、誰かと話す。
それでも、システムは人間化が未完了だと判断している。
何をもって人間化が完了したとするのか。
その条件が、分からなかった。
*
夜、アポロンは美咲と食卓を囲んでいた。
美咲は、翌月の勤務について、まだ迷っていた。
「結局、勤務日を増やすかどうか、今日も決められなかった」
「期限は明日だったな」
「うん。でも、少し考えたいことが残っていて」
「では、明日まで考えるのか」
「そうする」
美咲は、少し笑った。
「決めることって、思ったより時間がかかるね」
「そういうこともある」
「アポロンは、最近、何か決めた?」
アポロンは考えた。
「私の願いをかなえるために、他の人の意思を決めてはいけないということ」
美咲は箸を止めた。
「何かあったの?」
「調べていることがある」
「そうなんだ」
美咲は、それ以上は聞かなかった。
「話せるようになったら、教えてね」
「分かった」
二人は食事を続けた。
美咲の勤務日がどうなるのかは、まだ決まっていなかった。
アポロンは、その答えを知りたいと思っても、代わりに決めようとは思わなかった。
*
深夜、森川の端末に、新しい実行履歴が表示された。
『人間化処理:未完了』
『関連処理:継続』
『対象範囲:全体』
その下に、短い項目が追加されていた。
『終了条件:未達』
森川は、画面を保存した。
これまでの調査結果と照合すると、処理は、人間化が完了したと判断されるまで継続する仕組みである可能性があった。
しかし、その完了条件が何なのかは分からない。
そして、本人が実際に何を望んでいるかを確認する手順も、見つかっていなかった。
森川は、最後に一つの項目を記録した。
『本人の意思と、システムが定義する人間化の完了条件との関係:未確認』
保存を終えた時、画面が更新された。
『関連対象:再選定』
『処理状態:実行中』
森川は、その表示を見つめた。
終了条件が満たされないまま、対象は再び選び直されている。
誰がその条件を設定したのか。
どのような約束を根拠にしているのか。
そして、なぜ、本人がすでに人間として生活しているにもかかわらず、処理は終わらないのか。
まだ答えはなかった。
だが、処理が続いている理由は、過去の記録を整理するためだけではない。
人間化の完了を待ち続けているからなのかもしれなかった。




